大黒天

天下人 太閤秀吉を生み出した伝説の三面大黒天がここに降臨!!

豊臣秀吉は尾張の国 愛知郡中村郷(現、名古屋市中村区)の百姓(または足軽)であった木下弥右衛門の子として生を受け、7歳で父と死別。
以降、母の再婚相手の竹阿弥から虐待を受け、預け先の寺からも追い出され、撒き刈りや木綿針の行商に従事し、果ては最初に仕えた先で陰湿な苛めに遭うという悲惨な少年時代を過ごしましたが、そのどん底から天下人まで登り詰めるという日本のみならず世界的にも稀な大出世を遂げた歴史的英雄です。
そんな秀吉の出世の陰には、ある仏像との出会いがあったのです。それが三面大黒天です。

豊臣秀吉

仏像ワールドでは秀吉の菩提寺に今も伝わる三面大黒天を、木彫彩色師 篁千礼の全面監修の下、中国彫刻界の英才 葉志遠が本体および特徴的な台座を丁寧に彫り上げ、姉妹ブランド・イスムの工房で彩色を施し忠実に再現しました。

小振りで落ち着いた彩色の三面大黒天。その穏やかな表情からは、強大なご利益が秘められていることをうかがい知ることはできませんが、三面大黒天の持つ開運パワーはこの不安な時代を切り拓く大きな助けとなることでしょう。ぜひこの機会にお求めいただき、秀吉の出世栄達にあやかってください。

大金運と強力な勝負運、ありがたい良縁を同時に叶える
出世栄達の最強守護神!

秀吉が辛く苦しい挫折の日々を送る中、偶然出会ったのが三面大黒天でした。秀吉はその像を見るなり、発せられる強大な力をたちどころに感じたといいます。そして「もし私が出世し名声を天下に轟かせることができるなら粉々になれ。そうでなければそのままの姿であってほしい」と念じ三面大黒天を投げたところ、像は粉々になりました。大いに喜んだ秀吉は仏工に命じて2体目の像を彫刻させ、身近に置き崇拝したといいます。

この小さな像がその後の秀吉の運命を変えました。そう、秀吉が天下人になるための第一歩となった、織田信長との出会いです。三面大黒天を自らの守護神とし常に身近に置くようになってから、秀吉は正しく三面大黒天のご加護と三種のご利益に恵まれたといえます。

三面大黒天は大黒天、毘沙門天、弁財天という強力な天部が三位一体となった合体神です。

インドで大黒天はマハーカーラという戦闘神でしたが、財宝をもたらす力が強大なことから次第に各地の豪商たちに信奉され、金運の神となったのです。日本に伝来された際、「だいこく」という読みと通じることから五穀豊穣の神 大国主命(おおくにぬしのみこと)と結びつき穏やかな容貌の福の神となりました。

弁財天は元々インドで信仰されていたサラスヴァティーという女神で、川を神格化した神であったとされます。水が流れるせせらぎの音から音楽の神となり、そこから広く技芸・文芸などの才能をもたらす神となりました。現在では「才」が「財」に変わり福徳財宝を授ける神としても信仰されています。

毘沙門天は別名「多聞天」と呼ばれ、四天王の一尊として北方を守る守護神です。邪鬼を踏みつけた勇ましい姿から勝運、必勝祈願や財産を守る財運の神とされ、聖徳太子、坂上田村麻呂、楠木正成が篤く信仰しました。毘沙門天といえば上杉謙信が有名ですが、実は武田信玄もまた金色の毘沙門天像を兜の中に入れて出陣していたのです。こうした戦国の名将も毘沙門天への信仰によって多くの戦いで勝利を収めたのです。

このように単独でも強力な三神が一体となった三面大黒天は、大金運と強力な勝負運、そしてありがたい良縁を同時に叶える出世栄達の最強守護神であり、天下をも取らせる凄まじい力を発揮するのです。

三面大黒天が秀吉に授けた強大な勝負運

有名な「信長の草履」の件もそうです。履くと温かくなっていた草履を不審に思った信長は「草履を尻に敷いたのか」と烈火の如く怒りましたが、秀吉は「御足が冷えていらっしゃるだろうと思い懐に入れて温めておりました」と機転を利かせ、感心した信長は秀吉を草履取りの頭としました。手討ちにされる寸前から一転して、出世の足掛かりにしてしまったのです。

不遇の少年時代を過ごした秀吉は、三面大黒天との出会いから僅か30年で天下人となりますが、それも三面大黒天が授けた勝負運の強さの賜物だったといえます。

三面大黒天が秀吉に授けた日本一の良縁

秀吉が天下人となったきっかけは、信長との縁が結ばれたことにあります。しかし、秀吉が授かった良縁はそれだけに留まりません。秀吉が周囲から「猿」などと呼ばれ軽んじられる貧乏足軽だったころ、周囲の猛反対をよそに自分より身分の高い家系に生まれたねねを妻に迎え入れることに成功します。ねねは、主君の信長をして「どこを探してもあのハゲネズミ(秀吉)があなたほどの女性を得られるはずがない」と評したほどの女性でした。ねねはその内助の功で秀吉の出世を支えた日本一の良妻だったのです。

三面大黒天が秀吉に授けた大出世と莫大な富

1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いは、秀吉の出世栄達の最大のチャンスであったと同時に、文字通り生死を賭けた一世一代の大勝負でした。信長軍は朝倉義景を攻撃し金ヶ崎城をほぼ攻略しかけた矢先に、同盟関係にあった妹婿の浅井家の裏切りに遭い背後から攻められ、挟撃の危機に瀕したのです。ここで秀吉は、当時は死と同義語であった殿(しんがり)を志願しました。信長に僅か10騎の御供をつけ逃すと、秀吉の軍は無我夢中で戦い、信長は無事に帰還。さらに秀吉自身も奇跡的に逃げ延びることに成功します。この功績が高く評価され、秀吉の運命は本当の意味で大きく開かれていったのです。

そして1582年(天正10年)6月に本能寺の変が起こり、主君信長が明智光秀の謀反により不慮の死を遂げます。当時、備中の高松城を水攻めにしていた秀吉は、知らせを聞き号泣します。しかし、軍師 黒田官兵衛の助言もあって、秀吉は最後の大勝負に出ました。かの有名な「中国大返し」です。信長の死後、謀反人の明智光秀に時間的余裕を与えては光秀の天下が揺るぎないものになってしまうため、秀吉は速やかに毛利氏と講和を結び、2万人の本軍を岡山から京都まで約200キロの道のりをたった10日で踏破させるという奇跡的行軍を成し遂げ、光秀を討ち取ったのです。それからの秀吉は天下取りという究極の大出世を目指し邁進し、見事に成し遂げたことは歴史が証明しています。

このように秀吉は三面大黒天のご加護によって何度も危機から救われ、幾度となく奇跡を起こすことで世界史上類例を見ない程の大出世を遂げました。秀吉は200万石の所領を持ち、さらに全国から上納される莫大な金銀財宝によって史上空前の大金持ちとなったのです。

今も変わらず篤い信仰を集める秀吉の三面大黒天

秀吉が亡くなると、ねねは京都東山に高台寺を建立し、秀吉が大切にした三面大黒天像とともに移り住みます。高台寺にはねねを慕い多くの大名が訪れ、その中には徳川家康の姿さえありました。ねねは三面大黒天を祀り、秀吉の菩提を弔いながら余生を過ごし寛永元年(1624年)、その生涯を終えます。

秀吉の三面大黒天は現在もこの地に安置され、天下人を生み出したご利益を求める人々の篤い信仰を集めています。

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打ち出の小槌:「槌」は「土」、すなわち米をはじめとした様ざまなものを生み出す「大地」を意味します。叩けば叩くほど宝物が出てくるそうです。

袋:中に限りない幸福が入っているといわれています。
打ち出の小槌とあわせて家の宝が尽きず、豊かであることを象徴しています。

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頭巾:上を見ない謙虚さを表しています。

2つの米俵:二俵で満足するという、欲張らない心をあらわしています。

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念持仏とは

個人が身近に置いて礼拝するための仏像で、一般に小型の仏像が多い。日本の念持仏の歴史は古く、有名なものとして法隆寺の救世観音が聖徳太子の等身大の念持仏として知られている。
戦国時代以降は、武士が自身の得たい功徳によって個々に仏像を祀ることが一般的となり、豊臣秀吉や徳川家康などの武将が戦勝祈願として戦場へ念持仏を祀るようになった。

※こちらのガラスケースは別売りです。

商品名:
武将が愛した仏像 豊臣秀吉 三面大黒天
商品番号:
560-088
販売価格:
145,800円(税込)
サイズ:
高さ16.5cm×幅13cm×奥行10cm
材質:

こちらは中国にて彫刻を行い、木彫彩色師 篁千礼の全面監修の下、姉妹ブランド・イスムの工房で彩色を施した仕様です。新たに台座がセットとなります。

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