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第一部 連載1回目 「決して流れ去ることのないなにか」を求めて
「仏像ワールド」をご覧のみなさん、こんにちは。
文筆家の小出遥子です。
私は、現在、「仏教ファン」を名乗って、いのちの根源にあるものを伝えていく活動をしているのですが、元々は、いち「仏像ファン」でした。
仏像に魅せられて、全国各地のお寺を拝観して回っているうちに、仏教思想そのものにどんどんハマっていったという……。
この連載では、そんな私が素朴に感じている仏の教えの本質的な部分を、できるだけやわらかく、おもしろおかしく(?)伝えていけたらいいな、と思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
さて、元々はいち「仏像ファン」であった私ですが、最初に強く惹かれた仏像は、京都・太秦の広隆寺に安置されている、国宝・弥勒菩薩半跏思惟像でした。
この像の存在自体は、高校時代の日本史や倫理の教科書の中で知っていたのですが、実際に現物を拝観したのは20代前半の頃でした。
その頃、私は、人生に迷っていました。
ブラック企業勤めで、忙しい時期は週の半分家に帰れればいい方。
常に眉間にシワを寄せて、口を開けば「忙しい」「時間がない」……。
ハードな仕事で健康状態も悪化し、それと同時に人間関係もどんどんぐちゃぐちゃしていきました。
と、ここまではわかりやすいお話。
それ以前に、私、人生というものに大きな疑問を抱いていたんです。
その「疑問」をひとことで表すのなら……
「むなしさ」。
そう、私は、常に、言い知れない「むなしさ」をこころに抱えて生きていたのでした。
たとえなにかが「うまくいった」としても、いつも、どこか、満たし切れない。
うれしいこと、たのしいことはいつも一瞬。
なにもかもが「一瞬」のうちに流れ去ってしまって、あとにはなにも残らない。
ほんとうに、「なにひとつ」残らないなあ……。
こんなにむなしく、悲しいことってあるのかなあ……。
……と、当時はこんな風に明確に言語化できていたわけではないのですが、それでもこんな思いはいつも抱いていました。
それが、ハードワークをきっかけに、表面に出やすくなったのだと思います。
そんな中、鬱々とした気持ちを少しでも晴らそうと出かけた京都ひとり旅で、ふらっと立ち寄った広隆寺にて、私は運命の出会いを果たすのです。
宝物殿の中で控えめにライトアップされた弥勒さまは、ゆったりとしたポーズで、やわらかく微笑みながら、静かになにかをお考えになっていました。
その不思議なお姿に、私は強く惹きつけられました。
聞けば、「いかにして衆生を救おうか」と、そのことを、ただ一心に、56億7千万年もの間、じっと考え続けていらっしゃる、とのこと……。
その事実を知ったとき、私は、雷に打たれたような衝撃を覚えました。
「仏さまの時間軸は、私たち人間の時間軸とはまったく違うんだ……!」
そして、続けてこんな直感がやってきました。
「ここには“決して流れ去ることのないなにか”が、きっとある……!!!」
ずっとずっと感じ続けてきた「むなしさ」を解消してくれるかもしれない智慧との出会いに、私は、ほんとうに興奮しました。
「仏教ファン」小出遥子はこうして誕生したのでした。
と、同時に、私の果てのない「さとり」探求もスタートしてしまったのです……。
次回へ続きます!