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- 小出遥子のさとり探究記
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第一部 連載5回目 「仏」は「私」?
「私が見ているのは、ほんとうに仏さまの姿なのだろうか? 」
このあまりに素朴な疑問が湧いたのは、私が本格的に仏像を拝んで回るようになってから、数年が経過した頃でした。
それまで、私は、「私」という主体が、「仏」という対象を見て、その姿を拝んでいると思っていました。
というか、そう信じていました。
そこに一切、疑いはありませんでした。
でも、あるとき、ふと、こんな直感がやってきたんです。
「ほんとうは、すべて、いま・ここ・自分において起こっているのでは?」
って。
仏を見ている自分は、いま・ここにいる。
仏を見て、あれこれ感じて、泣いたり、笑ったり、反省したりしている自分は、いま・ここにいる。
すべて、いま・ここ・自分において起きている。
ということは……
「仏」と「自分」との間に、ほんとうのところ、一切の違いなんかないのでは……?
うわあ、大変なことに気づいてしまったかもしれない……!
そう思った、次の瞬間のことでした。
目の前の「仏」(そのときに手を合わせていたのは、京都・大原三千院の阿弥陀三尊像でした)と「私」との間の境界が溶けてなくなり、
ついで、「世界」と「私」との間の境界が溶けてなくなり、
一切の分離が消失して、
すべてが「ひとつ」として、ただ、存在している……!
そんなビジョンがあらわれたのでした。
……いよいよアヤしげな話になってきましたね(笑)。
でも、安心してください。
私は、正気です。
むしろ、このビジョンに触れたことによって、「正気」を取り戻したのです。
次回へ続きます!