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第一部 連載9回目  探求の罠(その3)



 

一切の苦しみの消え去った「涅槃」の世界に行きたい……!

 

その一心で、私は、数年間、一日も欠かすことなく坐禅を続けました。

 

 

 

坐禅は、とても「良い」ものでした。

 

ただただ坐って「いま」にあるという体験は、ほかではなかなか得難いものでした。

 

 

 

坐禅をしている数十分間は、日常のあれやこれやの煩い事から解放され自由になっていました。

 

こころが穏やかになって、呼吸も自然と深くなっていきました。

 

 

 

坐禅中、ふっと目の前の分離が消え去って、すべてが「ひとつ」としてある――

 

そのことが、理屈を超えて理解されるといった体験も、一度や二度のことではありませんでした。

(それを、一般的には、「見性」とか「一瞥体験」とか呼ぶのだと思います。)

 

 

 

それでも――

 

そういった体験は、あくまで「坐禅中」限定のものだったのです。

 

 

 

目を開いて立ち上がれば、相も変わらず「私」は「私」、「あなた」は「あなた」。

 

「会社」は「会社」で、「社会」は「社会」。

 

「すべてはひとつ」という世界は、夢のように消えてしまうのが常でした。

 

 

 

「さとった人」はこう言います。

 

「分離という世界が夢で、ひとつという世界こそが“ほんとう“なんですよ」

 

 

 

わかります。わかっているんです。

 

それでも、どうしても「わからない」んです。

 

一瞬「わかった!」と思っても、次の瞬間には「わからない」の波に呑み込まれる。

 

「わかった!」を何度重ねても、「わからない」の波が止むことはない。

 

 

 

修行が足りないのかもしれない、とも思いました。

 

しかし、やればやるほど「まだまだ」という気持ちが募るのです。

 

なにひとつ「はっきりしない」のです。

 

 

 

その頃には、坐禅をはじめて、かなりの年月が経っていました。

 

どうしていいのか、ほんとうにわからなくなってきました。

 

 

 

「答え」がない……。

 

 

 

私は、探求の苦しみに、どっぷりとハマり込んでいました。

 

 

 

次回に続きます!