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第一部最終回 連載15回目 それから……
私は、すでに、絶対的な「救い」の中にあった—―
この大きな気づきに包まれて以来、私の生活は変わっていきました。
まず、数年間、毎日続けていた坐禅をすっぱりやめてしまいました(笑)。
坐禅が嫌いになったというわけではありません。
ただ、坐禅をしているときに感じる「安心感」を、日々の生活の中でも感じて生きていきたい。
言い換えるのなら、ほんとうはいつだって仏の世界にいるのだということを、日常生活の中で当たり前のように感じて生きていきたい、と。
そんな気持ちが湧き上がってきたのです。
「修行」のベクトルが変わったと言うのでしょうか。
「ない」を「ある」に変えていくのではなく、
すでに「ある」ということを、静かに確信していくフェーズに入ったのです。
「いまではないいつか」「ここではないどこか」を目指し、「自分ではない誰か」になろうとするのではなく、
「いま」「ここ」「自分」にくつろいでいく修行。
「修行」ということばを使いましたけれど、そこに「苦行」のニュアンスは一切ありません。
どちらかと言えば、軽く、穏やかな空気感の中で行う「修行」という感じかな。
私の人生そのものが、たのしく、のびやかな修行の場に変わりました。
もちろん、だからと言って、私の人生に、愉快なことしか起こらなくなったわけではありません。
いまでも、私はしょっちゅう、理不尽なことに怒り、悲しみ、みじめさや情けなさに打ちひしがれて落ち込んでしまいます。
それでも、なぜか、どこか安心している。
怒りの中にいながら、悲しみの中にいながら、
みじめさの中にいながら、情けなさの中にいながら、
それでも、自分は、どうしようもなく「救われている」と、
その実感が、安心感が、完全に消え失せることはないのです。
「さとり」は、「救い」は、頭上から降ってくるものではなかった。
気がつけば自分の足下に「ある」もの、それが「さとり」であり「救い」であった。
これが、私の実感です。
私は、いや、私たちは、すでに、絶対的に、救われている—
何度忘れても、何度でも思い出せばいい。
仏が私を見放すことはない。
そう感じられないときですら、その事実が変わることはない。
だから、もう、「大丈夫」です。
私は、もう、「大丈夫」です。
その確信がある限り、「大丈夫」なんです。
……以上をもって、小出遥子の「さとり探究記(第一部)」は終わりとさせていただきます。
ご愛読、まことにありがとうございました。
次回以降は、「さとり探究記(第二部)」ということで、
さとり探求を終えた現在の私の視点から、日々の気づきや、いま思うことなどを、エッセイ方式で書いていきたいと思います。
引き続きよろしくお願いいたします!