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第三部 連載46回目 体感から「自力」「他力」を考える
みなさん、こんにちは!
前回の記事では、「こころ」の位置が、
「あたま」寄りにあるか、「おなか」寄りにあるかによって、
「思考・感情・感覚」の「質」が変わってきて、
同時に、安心感、安定感の深さも変わってくる、
ということを、図解付きで解説しました。
その図解の中に、
あたま=「考える」優位、過去・未来、分離、排除、自力、人間の世界
おなか=「感じる」優位、いま、つながり、受容、他力、神仏の世界
という表記があったかと思いますが、
今日は、この中の、「自力」と「他力」について、もう少し詳しく解説してみたいと思います!
「こころ」が「あたま」寄りの位置にあると、
「私」は視野が狭くなり、世界との「つながり」を見失います。
すると、「自力」が発動して、
「なんとかして、自分が、自分の力で、自分の命を生きながらえさせなきゃいけない!」
という思考が生まれ、同時に緊張感が生まれます。
「失敗は許されない……!」
「失敗したら、死んでしまう……!」
この緊張感が、なんとも言えない居心地の悪さを生じさせます。
一方、「こころ」が「おなか」寄りの位置にあるときは、これとは逆のことが起こります。
「こころ」が「おなか」におさまっていると、視野が大きく広がり、
同時に、普段、「私」が「私」だと思っているものの範囲も、
どこまでも、どこまでも、大きく広がっていきます。
(そして最終的には「私」は幻想の存在だったと気づくのですが、このお話はまた別の機会に。)
すると、「自分」と「他者」とのつながりが、理屈を超えて理解(体感)されてきて、
「自分は、自分の力で生きていたわけではなかった……!」
「自分は、自分以外のすべてに生かされていたのだ……!」
と、そんな気づきがやってきます。
「私がいのちを生きている」のではなくて、
「いのちが、ただ、生きている」。
自分(自力)を超えた、大きな大きな仏の力(他力)が、
いまここに、ただ、はたらいている。
その気づきは、果てしない安心感を運んできます。
そう、安心感は、「他力」とともにあるのです。
……と、こんなふうに、理屈はいくらでも解説できるのですが(笑)
何度もお伝えしているように、大切なのは、いつだって、ご自身の「体感」です。
ぜひ、繰り返し、ワークを実践してみてくださいね。
次回へ続きます!
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