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稲垣啓太似?変貌する毘沙門天-石山寺・如意輪観音の旅 その2

”福徳を授ける吉祥天とのファミリー構成で、毘沙門堂内はまさしく福に溢れているのでありました……”
神仏研究家・音楽家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。

こんにちは。先週から、滋賀・石山寺をテーマにブツブツ書いております。

※出かけたのは6月、ちょうど緊急事態が解除され状況が収まりかけていたタイミングでのこと。現地に迷惑を掛けないよう、充分に感染対策しての旅でした。

前回は、石山寺の創建伝承をご紹介して、謎めく勅封本尊・如意輪観音へ…というところで終わりました。
今回はご本尊の前に、境内の毘沙門堂へ行きましょう。すみません引っ張ってしまいまして。


石山寺の境内。右手前に見えるのが毘沙門堂

こちらの毘沙門堂、建てられたのは安永2年(1773)。施主は藤原正勝。棟梁や大工の名も伝わっている情報がはっきりしている建物です。

中には入れませんが、外からでも充分に毘沙門天を拝むことができます(この記事下の写真参照)。
すごい迫力。分厚い甲冑を付けて、右手に三叉戟(げき:古代中国の武器)を持ち、左手は毘沙門天のシンボルである仏塔を捧げ持っています。


平安時代:和風なお顔のトバツ毘沙門天

足下を見ると、地天女という女神が両手を出したところに毘沙門天の両足が載っています。地天女の横には尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)という小鬼たち。
このスタイルは毘沙門天のなかでも兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)と呼ばれ、外敵をやっつける王城鎮護(おうじょうちんご)の役目を負う勇ましい武神として祀られます。
有名なものだと、京都・東寺の像。これはもともと平安京の羅城門に置かれて都を守護していました。検索すると画像出ますが、敵を威嚇する厳しい表情をしています。


毘沙門堂の兜跋毘沙門天、向かって右が吉祥天、左が善膩師童子

石山寺のこの像も、そんな勇ましい武神なんでしょうか?

腰を軽く左にねじるポーズで、顔は正面を向いている。
天部像にありがちなギョロ目ではなく、ちょっと小さめのいかにも日本人ぽい目をしています。
ぼくの印象だと、「笑わない男」でおなじみラグビーの稲垣啓太選手に似ているなあという感じ(口元が似ている)。

その表情に魔物を威嚇するような怖さはなく、わりと優しいというか、ALSOKのコマーシャルに出てきそうなマジメな警備員みたいな印象です。

「安心!見守りサービス実施中」

なんていうキャッチコピーが似合いそうです。

「イチニーサンシー、アルソック~」

と、オリンピック選手と一緒にぎこちないダンスをしそうであります。


中国風の武装をしながら日本人ぽい顔をした毘沙門天立像は、10世紀の作とされていまして、ちょうど平安京では「国風文化」が花開くころの時代です。
それ以前は天竺(インド)や唐(中国)の文化を一生懸命取り入れて、平城京から平安京で外来文化を謳歌していたのですが、遣唐使廃止に伴って、日本独自の和様文化が爛熟。『枕草子』『源氏物語』が書かれて、ひらがなも開発。そういう時代だったことは、歴史で習ったとおりです。


鎌倉時代:南を睨むトバツ毘沙門天

そんな時代の空気にぴったり合う、和風なお顔立ちの毘沙門天。

石山時の縁起には、鎌倉幕府にからんだエピソードがあります。

時は鎌倉時代初頭。源頼朝の側近だった中原親能(なかはら の ちかよし)が、謀反を鎮めるために石山寺で祈ったところ毘沙門天が現れ、それを機に「勝南院」を建立して毘沙門天を祀ったとのこと。

その毘沙門天が、今見ているこの像なのかはっきりしません(本堂にも立派な毘沙門天がいます)。
しかし、東寺に羅城門ゆかりの兜跋毘沙門天がいて、石山寺は東寺真言宗で朝廷とも深い関係がありましたし、そこに兜跋毘沙門天にいるのも何か縁あってのことなのでしょうか。

また、勝南院とは、”南に勝つ”という意味ですが、謀反人の居所だった「和束(わづか)」の地が石山の真南にあったことが由来です(『石山寺縁起』より)。
平安京で、羅城門は京の南端に位置し、兜跋毘沙門天が南からくる外敵に睨みを利かせました。石山寺の勝南院と和束の位置関係もこれに合致します。
そういうことを考えると、都の貴族でもあった中原親能が、南にいる謀反人を鎮める目的のために、平安京にならって兜跋毘沙門天を祀ったのかもしれません(ふつうの毘沙門天の台座を変えてトバツの形にした可能性もありそうですね)。


江戸時代:福の神としての毘沙門天

さて、現在の毘沙門堂を覗いてみると、両脇には、吉祥天(きっしょうてん:毘沙門天の妻とされる)、善膩師童子(ぜんにしどうじ:毘沙門天の子)が立って、ご家族三人並んでいます。

このファミリー構成からすると、真ん中に立つ兜跋毘沙門天が、魔物をせん滅するアグレッシブなイメージではなく、仕事熱心で家族に優しい、立派なお父さんに見えてしまいます。

じつは毘沙門天は武神だけでなく、福徳の神の性格もあるのでした。同じく福徳を授ける吉祥天とのファミリー構成で、毘沙門堂内はまさしく福に溢れているのでありました。

お堂のしつらえに注目すると、ちゃんと「福の神ファミリー」三尊を安置する用途で作られているように見えます。
ここから、当時の想いが想像できます。

時は江戸時代なかば。施主である藤原正勝は、兜跋毘沙門天を深く信仰していたとのこと。お堂建設の二年前は江戸の大火「明和9年・行人坂の大火」があったり、田沼意次の政治改革が不評だったり、ちょっと沈んだ時代だったようです。
藤原正勝さん、お堂を建てて、古い時代の毘沙門天を安置して、左右には吉祥天と善膩師童子も置いて、世情の安定を願ったのか、それとも商売繁盛を祈ったのでしょうか。
(ちなみにその後、安永6年に浅間山、安永8年に桜島が大噴火して世情不安が深まってしまいます)

今回の毘沙門天像は、平安時代造像当初は、きっと魔物と戦う勇ましい武神として造像され、のちの鎌倉時代には謀反の敵を殺す物騒な役目を担ったのでしょう。
そこからさらに約600年後、戦争が無くなった江戸時代は七福神ブーム真っ盛り。そこでは、くらしを豊かにする福の神として、毘沙門天が必要とされたのでした。


安永2年に建てられた現在の毘沙門堂

時代を経るにつれ、目的が変化し、それにともなって毘沙門天さんのお顔も柔和になってきた……? そんなことはないか(笑)。
「笑わない男」稲垣啓太選手も、最近は笑顔がスクープされてるし……。

このように、一体の仏像が、発願当初の目的とはちがう形で祀られるのはよくあることで、もしかしたら石山寺の本尊・如意輪観音もそういうことがあるのかもしれません。

そんなわけで、次週はいよいよ本堂に入って如意輪観音を拝したいと思います。


(参考)
大本山 石山寺公式ホームページ
https://www.ishiyamadera.or.jp



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宮澤やすみ公式サイト:http://yasumimiyazawa.com
宮澤やすみツイッター:https://twitter.com/yasumi_m