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第412回 秘仏の存在、自分の不在に向き合う -再開館記念展「不在」-
”仏像取材で厨子を開けてもらったとき、仏像を前にして目を閉じている自分が--”
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。東京江古田のミュージックバーで小唄を歌ってきた宮澤やすみです。小唄にふれる機会のない人たちに届けられるよい機会です。
そんな中、秋の美術展シーズンも後半。東京・丸の内の三菱一号館美術館が、一年半の改装を終えて再オープン。
「不在」と題された記念展の取材に行きました。
一年半の休館を経て、待ちに待った再開館取材
この展覧会のポイントは、19世紀の美術を中心に展示してきた美術館で、はじめて現代美術を扱ったこと。
そして、コロナによる企画(ソフィカル氏が出るはずだった)中止と、改装工事による一時閉館で、美術館の存在自体が「不在」となっていたこと。
そんな状況をバネにして、現代美術家のソフィ・カル氏が表現する「不在」と、館所蔵のロートレック作品をコラボさせた展示になっていました。
エントランスに、ロートレックとソフィ・カルのキーヴィジュアルが掲示
ロートレックが描く娼婦や女優、歌手、富豪たちの姿は、生き生きと躍動して生きているよう。100年以上も前の人物なのにありありと「存在」を感じます。
展示風景より。約130年前に生きた歌手アリスティド・ブリュアンだが、ロートレックの画業のおかげで今も存在感を示す
いっぽう、現代に生きているソフィ・カル氏は、徹底して「不在」を表現。
私は今回はどちらかというとソフィ・カル氏の世界を取材したかったのですが、写真の撮影も掲載も一切禁止なんです。
メディア関係者にさえ撮影制限するという徹底ぶりは、自身の「不在」を演出しているようにも見えました。
だから、ここでは展示を見た記憶をお話することしかできません。まずソフィカル氏が父母を亡くしたことのモノローグと写真の展示。
改装後の展示室は、乳白色の壁に変更。毛足の長い絨毯で足音がせず快適に鑑賞
スマホの電話帳に残る父の番号にかけてしまい、画面に父の生前の顔が表示されている。その父は「存在」しているのか。
父母を丁寧に弔ったソフィカル氏。でも子供がいない私はこのままだれにも知られず朽ちていくのだ。
そんなソフィ・カル氏の個人的な思いが、観る者に切実に届いて、他人事ではない感覚になります。
命のリレーが分断されることへの無念、諦観。私自身も子供がいない身の上なので、こうした思いはあります。
そして、自分の死後、祖父の遺物をどうしようとか、自分自身の生きた痕跡をどう残そうとか、存在証明ばかり考えてしまいますが、そこにこだわりすぎると失敗しそうなので、日々の仕事を淡々とするしかありません。
館内ミュージアムショップには、ソフィ・カルの作品集と記念トートバッグを販売。これも内容を一切明かさない潔いデザイン
「大人がハマるアニメ」として大ヒットした『葬送のフリーレン』でも、似たような話がありました。
勇者ヒンメルが盛んに自分の銅像を建てて
「自分が死んだ後も僕たちは確実に存在していたという証を残したい」
と言います。
ある歌には、
--哀れなのは、死んだ女でなく、忘れられた女ーー
という文句があります。
いずれも少子化人口減少社会において、現代の大人たちの不安を言い当てているようです。
仏像ファンの目線ではどうでしょうか。
お寺の本尊が、秘仏として厳重に扉を閉ざしていた場合、見ることができない仏像は「不在」なのかどうか。
見仏目的の観光客には「不在」として、素通りするかもしれません。
信仰のある人には、目に見えるかどうか関係なく手を合わせてその「存在」を感じます。
まるで中世の修道院に見えなくもない、三菱一号館美術館
私の経験をお話しすると、自分はあまり信仰に篤いほうではないのですが、あるとき仏像取材で厨子を開けてもらったとき、仏像を前にして目を閉じている自分がいました。
なんかもう、見なくても満足できるんだな、暗くてよく見えないし、そもそも目が悪いし、と気付いた私は、それ以降は秘仏ご開帳への興味が薄れてしまいました。
ただ、写真やガラスケース越しに見るのとはちがって、その場に一緒に居る、という感覚はまさしくおたがいの「存在」を感じてのことで、格別だと思います。
そんなことを考えていたら、ソフィ・カル氏の最後の展示は、額縁の写真作品に丁寧にフェルトの布が掛けられているものでした。
その布を、自分でペロンとめくって「ご開帳」。そして作品をのぞき込むという面白い作品でした。
仏像ファンなら、その楽しさはわかってもらえるんじゃないかと思います。
それでは聴いてください。
ザ・ブッツで「川のほとりで」。
再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル
2024年11月23日(土) ー 2025年1月26日(日)
三菱一号館美術館
詳細:https://mimt.jp/ex/LS2024/
■あわせて読む(関連記事)
「芸術」が最も幸せだった時代 ルドン-ロートレック展
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20201027-2/
「甘美なるフランス」の時代、祖父はパリにいた②
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20210928-2/
--おしらせ---
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早稲田大学オープンカレッジ 冬講座(全3回)
早稲田大学エクステンションセンター中野校にて2025年2月から
【神と仏 1300年の愛憎関係】
-神仏習合から廃仏へ-
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/63518/
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。東京江古田のミュージックバーで小唄を歌ってきた宮澤やすみです。小唄にふれる機会のない人たちに届けられるよい機会です。
そんな中、秋の美術展シーズンも後半。東京・丸の内の三菱一号館美術館が、一年半の改装を終えて再オープン。
「不在」と題された記念展の取材に行きました。
一年半の休館を経て、待ちに待った再開館取材
この展覧会のポイントは、19世紀の美術を中心に展示してきた美術館で、はじめて現代美術を扱ったこと。
そして、コロナによる企画(ソフィカル氏が出るはずだった)中止と、改装工事による一時閉館で、美術館の存在自体が「不在」となっていたこと。
そんな状況をバネにして、現代美術家のソフィ・カル氏が表現する「不在」と、館所蔵のロートレック作品をコラボさせた展示になっていました。
エントランスに、ロートレックとソフィ・カルのキーヴィジュアルが掲示
ロートレックが描く娼婦や女優、歌手、富豪たちの姿は、生き生きと躍動して生きているよう。100年以上も前の人物なのにありありと「存在」を感じます。
展示風景より。約130年前に生きた歌手アリスティド・ブリュアンだが、ロートレックの画業のおかげで今も存在感を示す
いっぽう、現代に生きているソフィ・カル氏は、徹底して「不在」を表現。
私は今回はどちらかというとソフィ・カル氏の世界を取材したかったのですが、写真の撮影も掲載も一切禁止なんです。
メディア関係者にさえ撮影制限するという徹底ぶりは、自身の「不在」を演出しているようにも見えました。
だから、ここでは展示を見た記憶をお話することしかできません。まずソフィカル氏が父母を亡くしたことのモノローグと写真の展示。
改装後の展示室は、乳白色の壁に変更。毛足の長い絨毯で足音がせず快適に鑑賞
スマホの電話帳に残る父の番号にかけてしまい、画面に父の生前の顔が表示されている。その父は「存在」しているのか。
父母を丁寧に弔ったソフィカル氏。でも子供がいない私はこのままだれにも知られず朽ちていくのだ。
そんなソフィ・カル氏の個人的な思いが、観る者に切実に届いて、他人事ではない感覚になります。
命のリレーが分断されることへの無念、諦観。私自身も子供がいない身の上なので、こうした思いはあります。
そして、自分の死後、祖父の遺物をどうしようとか、自分自身の生きた痕跡をどう残そうとか、存在証明ばかり考えてしまいますが、そこにこだわりすぎると失敗しそうなので、日々の仕事を淡々とするしかありません。
館内ミュージアムショップには、ソフィ・カルの作品集と記念トートバッグを販売。これも内容を一切明かさない潔いデザイン
「大人がハマるアニメ」として大ヒットした『葬送のフリーレン』でも、似たような話がありました。
勇者ヒンメルが盛んに自分の銅像を建てて
「自分が死んだ後も僕たちは確実に存在していたという証を残したい」
と言います。
ある歌には、
--哀れなのは、死んだ女でなく、忘れられた女ーー
という文句があります。
いずれも少子化人口減少社会において、現代の大人たちの不安を言い当てているようです。
仏像ファンの目線ではどうでしょうか。
お寺の本尊が、秘仏として厳重に扉を閉ざしていた場合、見ることができない仏像は「不在」なのかどうか。
見仏目的の観光客には「不在」として、素通りするかもしれません。
信仰のある人には、目に見えるかどうか関係なく手を合わせてその「存在」を感じます。
まるで中世の修道院に見えなくもない、三菱一号館美術館
私の経験をお話しすると、自分はあまり信仰に篤いほうではないのですが、あるとき仏像取材で厨子を開けてもらったとき、仏像を前にして目を閉じている自分がいました。
なんかもう、見なくても満足できるんだな、暗くてよく見えないし、そもそも目が悪いし、と気付いた私は、それ以降は秘仏ご開帳への興味が薄れてしまいました。
ただ、写真やガラスケース越しに見るのとはちがって、その場に一緒に居る、という感覚はまさしくおたがいの「存在」を感じてのことで、格別だと思います。
そんなことを考えていたら、ソフィ・カル氏の最後の展示は、額縁の写真作品に丁寧にフェルトの布が掛けられているものでした。
その布を、自分でペロンとめくって「ご開帳」。そして作品をのぞき込むという面白い作品でした。
仏像ファンなら、その楽しさはわかってもらえるんじゃないかと思います。
それでは聴いてください。
ザ・ブッツで「川のほとりで」。
再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル
2024年11月23日(土) ー 2025年1月26日(日)
三菱一号館美術館
詳細:https://mimt.jp/ex/LS2024/
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-神仏習合から廃仏へ-
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/63518/
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com