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第439回 百済観音はいつから「百済観音」なのか?―前編―
”世間一般に「百済観音」の呼称が広まったのは--”
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。夏の早稲田大学社会人講座に向けて、準備に追われている宮澤やすみです。この時期は音楽出演を減らして引きこもり状態になります。
そんな中、奈良国立博物館では「超国宝展」が盛況のうちに閉幕。ブツ仲間たちもこぞって訪れていました。
中でも展示の目玉は中宮寺の菩薩半跏像と、法隆寺の百済観音。この連載でもこれまで何度も紹介してきました。
その中で、今回は百済観音の謎について迫ります。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
江戸時代、元禄年間の記録には「虚空蔵菩薩」とあるそうですが、近代以降百済観音の呼称が使われるようになります。
なぜ「百済」なのか、なぜ「観音」なのか。
なかでも「百済」呼称の経緯はじつははっきりとしないのですが、わたくし一念発起してちょっと調べてみました。いや、発起したわりにちょっとだけなんですけどね。
時代をさかのぼっていきましょう。
まず、世間一般に「百済観音」の呼称が広まったのは、ベストセラー仏像本・和辻哲郎「古寺巡礼」からといわれます。
連載での初出が1918-1919年(大正7-8年)のことです。
このエッセイでは、和辻氏は奈良国立博物館を訪れ、その展示室で百済観音に対峙するのですが(ちなみに隣に置かれていたのは聖林寺の十一面観音!)、なんの説明もなくいきなり「百済観音」と出てくるので、当時の博物館のキャプションにそう書いてあったのでしょう。
そして、「百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である」と書いて、中国で造られたと予想しています。
また同じ1919年(大正8年)の刊行物で、法隆寺の宝物を一挙にまとめた『法隆寺大鏡』があります。
(訂正:旧版は1917年(大正6年)に発行されていました)
国立国会図書館を検索してみました。
すると、『法隆寺大鏡』第51集に「百済観音」の記述がありました。しかし、これも当たり前のように百済観音とあるだけで、その由来は書かれていません。

2020年には東京国立博物館で展示の予定だったが、コロナ禍で中止
さらにさらに、国会図書館を検索すると、
『山紫水明』という本が出てきました。
(陸羯南 等述 │研学会 編陸軍受験講義録編輯所 1897)
和暦に直すと明治30年刊行。
陸羯南(くが かつなん)という人は明治期のジャーナリストで新聞「日本」を創刊した人。
その中の「旅びねのすさび」という章で、法隆寺を訪れています。
そこには、
金堂、銅三尊三組 金堂 百済観音一体
とあるだけで、これまた百済の説明はありませんでした。しかし、
この寺の宝物の事、岡倉文学士の分かちたるによれば
とあり、つまり有名な岡倉天心の文化財調査の時点で、すでに百済観音の呼称が作られていたのでしょうか?

『山紫水明』百済観音の記述があるページ抜粋
岡倉天心が、アーネスト・フェノロサと共に法隆寺を調査し、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開けさせたエピソードはよく知られていますが、これが1884年(明治17年)頃と本人が回想しています。
明治19年にも文部省の役人として調査に入っています。このときに百済観音も調査されていたことでしょう。
ただ、『岡倉天心全集』にある記録を見ると、
観音木造 長サ一丈餘ニシテ細長キモノ
虚空蔵木造 聖徳太子ノ時請来ト伝フ
(「美術品保存ニ付意見及び美術品目録」より)
と記述があって、「百済」の表記がありません。
そして、どちらの像が百済観音を指しているのかもあやふやです。

岡倉天心が法隆寺金堂調査で「細長キモノ」と書いたのは百済観音のことだったのか、それとも「虚空蔵」のほうなのか…
ということは、「百済」を付けた張本人は、岡倉氏ではないのでしょうか? もしかしたらほかの記述にあるのかも知れませんが…、
まあ気が向いたら「岡倉天心全集」を片っ端からあたってみようと思います(もしご存知の方がいらしたらご連絡くださいますか)。
ともかく、当時の定説ではこの像は朝鮮半島から来た像であるとされていたので、そのイメージが先行して「百済観音」の呼称がついたようです。
そう名付けられた時期は、明治17年岡倉天心調査から明治30年『山紫水明』の間であることがわかりました。
あの仏像が、あだ名が付けられるくらい多くの人にインパクトを与え親しまれてきた仏像であることは、間違いありません。
いっぽう、”なぜ「観音」なのか”について。
上記の通り、明治のうちに虚空蔵が観音と呼ばれるようになるのですが、その根拠ははっきりせず、法隆寺では古来の伝承にのっとって「虚空蔵菩薩」としてきました。
その後、法隆寺が「観音」と認めたのが明治44年。
このときに菩薩像の宝冠が発見され、そこに線彫りで阿弥陀の化仏(けぶつ)が彫られていたのが見つかったのです。
阿弥陀の化仏を頭上に戴くのは、観音菩薩のシンボルです。
なので、この像は虚空蔵でなく観音だということがはっきりしたのでした。
いま私の手元に、岩波書店発行の写真集『夢殿観音と百済観音』がありますが、そのなかで便利堂所属の写真家だった辻本米三郎氏による大判写真が、百済観音の宝冠化仏を大写しにしていて、とてもわかりやすいです。
写真を載せたいけど……権利上めんどうなので、ご自身で探してみてください。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
そして、像の部材が日本でよく使われたクスノキであることなどから、日本国内での造像というのが現在の通説になっています。
以上、はっきりしない点もありますが、このエピソードで分かるのは、仏像や考古学の学説は、常にアップデートされているということ。
昔の常識が通用しない場合もあるということを、頭に入れておかないといけませんね。
じつは「白鳳時代」とか「藤原京」という呼称も、じつは大正時代くらいにドサクサで付けられたのが一般に浸透したものなんですよね。
その話はまたこんど。
そんな百済観音のエピソードを歌詞にした一曲、
それでは聴いてください。
宮澤やすみ & ザ・ブッツ で「君はソウルメイト!百済観音」
(アルバム『Kannon Sessions』より)。
■あわせて読む(関連記事)
百済観音はいつから「百済観音」なのか? 完結編 -張本人をさがせ!-
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20250624-2/
客仏の哀しみ? 百済観音のひみつ
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20190723-2/
無念の特別展中止。それでも百済観音は美しい
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200414-2/
飛鳥美術の気品「法隆寺金堂壁画と百済観音」
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200324-2/
--おしらせ---
本コラム筆者・宮澤やすみ関連情報
1.
早稲田大学オープンカレッジ(中野キャンパス)
消された仏像―古社・古寺の神仏分離
―神と仏、1300年の「事情」―
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65021/
2.
吉原の酔狂と悲哀を歌った古典小唄集
『廓の夜』 宮澤やすみ(唄、三味線、解説)
https://yasumimiyazawa.com/kuruwanoyorubook.html
歌詞と解説をまとめたガイドブック発売中
※楽曲はYoutube、Spotifyなどで誰でも聴けますが、これがあればよりよくわかる!
宮澤やすみ出演情報(これからとこれまで)まとめ
https://yasumimiyazawa.com/live.html
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。夏の早稲田大学社会人講座に向けて、準備に追われている宮澤やすみです。この時期は音楽出演を減らして引きこもり状態になります。
そんな中、奈良国立博物館では「超国宝展」が盛況のうちに閉幕。ブツ仲間たちもこぞって訪れていました。
中でも展示の目玉は中宮寺の菩薩半跏像と、法隆寺の百済観音。この連載でもこれまで何度も紹介してきました。
その中で、今回は百済観音の謎について迫ります。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
江戸時代、元禄年間の記録には「虚空蔵菩薩」とあるそうですが、近代以降百済観音の呼称が使われるようになります。
なぜ「百済」なのか、なぜ「観音」なのか。
なかでも「百済」呼称の経緯はじつははっきりとしないのですが、わたくし一念発起してちょっと調べてみました。いや、発起したわりにちょっとだけなんですけどね。
時代をさかのぼっていきましょう。
まず、世間一般に「百済観音」の呼称が広まったのは、ベストセラー仏像本・和辻哲郎「古寺巡礼」からといわれます。
連載での初出が1918-1919年(大正7-8年)のことです。
このエッセイでは、和辻氏は奈良国立博物館を訪れ、その展示室で百済観音に対峙するのですが(ちなみに隣に置かれていたのは聖林寺の十一面観音!)、なんの説明もなくいきなり「百済観音」と出てくるので、当時の博物館のキャプションにそう書いてあったのでしょう。
そして、「百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である」と書いて、中国で造られたと予想しています。
また同じ1919年(大正8年)の刊行物で、法隆寺の宝物を一挙にまとめた『法隆寺大鏡』があります。
(訂正:旧版は1917年(大正6年)に発行されていました)
国立国会図書館を検索してみました。
すると、『法隆寺大鏡』第51集に「百済観音」の記述がありました。しかし、これも当たり前のように百済観音とあるだけで、その由来は書かれていません。

2020年には東京国立博物館で展示の予定だったが、コロナ禍で中止
さらにさらに、国会図書館を検索すると、
『山紫水明』という本が出てきました。
(陸羯南 等述 │研学会 編陸軍受験講義録編輯所 1897)
和暦に直すと明治30年刊行。
陸羯南(くが かつなん)という人は明治期のジャーナリストで新聞「日本」を創刊した人。
その中の「旅びねのすさび」という章で、法隆寺を訪れています。
そこには、
金堂、銅三尊三組 金堂 百済観音一体
とあるだけで、これまた百済の説明はありませんでした。しかし、
この寺の宝物の事、岡倉文学士の分かちたるによれば
とあり、つまり有名な岡倉天心の文化財調査の時点で、すでに百済観音の呼称が作られていたのでしょうか?

『山紫水明』百済観音の記述があるページ抜粋
岡倉天心が、アーネスト・フェノロサと共に法隆寺を調査し、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開けさせたエピソードはよく知られていますが、これが1884年(明治17年)頃と本人が回想しています。
明治19年にも文部省の役人として調査に入っています。このときに百済観音も調査されていたことでしょう。
ただ、『岡倉天心全集』にある記録を見ると、
観音木造 長サ一丈餘ニシテ細長キモノ
虚空蔵木造 聖徳太子ノ時請来ト伝フ
(「美術品保存ニ付意見及び美術品目録」より)
と記述があって、「百済」の表記がありません。
そして、どちらの像が百済観音を指しているのかもあやふやです。

岡倉天心が法隆寺金堂調査で「細長キモノ」と書いたのは百済観音のことだったのか、それとも「虚空蔵」のほうなのか…
ということは、「百済」を付けた張本人は、岡倉氏ではないのでしょうか? もしかしたらほかの記述にあるのかも知れませんが…、
まあ気が向いたら「岡倉天心全集」を片っ端からあたってみようと思います(もしご存知の方がいらしたらご連絡くださいますか)。
ともかく、当時の定説ではこの像は朝鮮半島から来た像であるとされていたので、そのイメージが先行して「百済観音」の呼称がついたようです。
そう名付けられた時期は、明治17年岡倉天心調査から明治30年『山紫水明』の間であることがわかりました。
あの仏像が、あだ名が付けられるくらい多くの人にインパクトを与え親しまれてきた仏像であることは、間違いありません。
いっぽう、”なぜ「観音」なのか”について。
上記の通り、明治のうちに虚空蔵が観音と呼ばれるようになるのですが、その根拠ははっきりせず、法隆寺では古来の伝承にのっとって「虚空蔵菩薩」としてきました。
その後、法隆寺が「観音」と認めたのが明治44年。
このときに菩薩像の宝冠が発見され、そこに線彫りで阿弥陀の化仏(けぶつ)が彫られていたのが見つかったのです。
阿弥陀の化仏を頭上に戴くのは、観音菩薩のシンボルです。
なので、この像は虚空蔵でなく観音だということがはっきりしたのでした。
いま私の手元に、岩波書店発行の写真集『夢殿観音と百済観音』がありますが、そのなかで便利堂所属の写真家だった辻本米三郎氏による大判写真が、百済観音の宝冠化仏を大写しにしていて、とてもわかりやすいです。
写真を載せたいけど……権利上めんどうなので、ご自身で探してみてください。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
そして、像の部材が日本でよく使われたクスノキであることなどから、日本国内での造像というのが現在の通説になっています。
以上、はっきりしない点もありますが、このエピソードで分かるのは、仏像や考古学の学説は、常にアップデートされているということ。
昔の常識が通用しない場合もあるということを、頭に入れておかないといけませんね。
じつは「白鳳時代」とか「藤原京」という呼称も、じつは大正時代くらいにドサクサで付けられたのが一般に浸透したものなんですよね。
その話はまたこんど。
そんな百済観音のエピソードを歌詞にした一曲、
それでは聴いてください。
宮澤やすみ & ザ・ブッツ で「君はソウルメイト!百済観音」
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飛鳥美術の気品「法隆寺金堂壁画と百済観音」
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200324-2/
--おしらせ---
本コラム筆者・宮澤やすみ関連情報
1.
早稲田大学オープンカレッジ(中野キャンパス)
消された仏像―古社・古寺の神仏分離
―神と仏、1300年の「事情」―
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65021/
2.
吉原の酔狂と悲哀を歌った古典小唄集
『廓の夜』 宮澤やすみ(唄、三味線、解説)
https://yasumimiyazawa.com/kuruwanoyorubook.html
歌詞と解説をまとめたガイドブック発売中
※楽曲はYoutube、Spotifyなどで誰でも聴けますが、これがあればよりよくわかる!
宮澤やすみ出演情報(これからとこれまで)まとめ
https://yasumimiyazawa.com/live.html
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com