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第440回 百済観音はいつから「百済観音」なのか? 完結編 -張本人をさがせ!-
”忽然と「百済観音」の表記が表に出るのですが、この間に何があったんでしょう--”
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。7月5日の三味線ライブに向けて準備を進めている宮澤やすみです。お弟子さんがいろいろサポートしてくれて助かってます。
そんな中、この連載、前回は百済観音の謎について迫りました。
しかし、まだまだ分からない点もあったので、あらためて調べてきました。
「百済観音のネーミング事情」について、問題を整理すると、
1.虚空蔵と呼ばれていたのに、なぜ観音に変わったのか?
2.なぜ百済なのか?
という二つがあります。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
まず、現在の定説を整理しましょう。
百済観音についてもっとも古い記述は、江戸時代、元禄年間の書物が最初です。それが、
元禄11年(1698年)「諸堂仏体数量記」
というもので、そこには、
虚空蔵菩薩百済国ヨリ渡来。但シ天竺ノ像也。毎夜捧ルト天燈ヲ申シ傳ル也
(『奈良六大寺大観 第4巻(法隆寺4)』より引用)
と書かれています。つまり、
・観音ではなく虚空蔵菩薩とされていたこと、
・百済から来た渡来仏(日本で造ったものではない)であること
の2点が記述されていて、これが明治のころまでこの像の基本情報になります。
とくに”百済”のイメージはここからずっと引きずっていきます(その根拠はなく、現在では日本国内での造像とされます)。

こちらは2番目に古い文献、元文年間の「古今一陽集」。”虚空蔵菩薩””異朝請来”の記述がある『法隆寺資料集成13』より
そして、「百済観音」表記の初出は、
大正6年(1917)『法隆寺大鏡 第四十集』とされてきました。
翌大正7年からの和辻哲郎のエッセイ「古寺巡礼」などで書かれて世間に広まっていく・・・

『法隆寺大鏡第四十集』抜粋。”百済観音といひ”とあり、虚空蔵の伝承も記述しながら観音として紹介
と、ここまでが、だいたい世間で一般的な、「百済観音のネーミングの経緯」です。
ところがですよ、
この連載の前回で、明治30年(1897)の『山紫水明』という本に、
”「百済観音」”と書かれているのです。
さきほど初出とされていた『法隆寺大鏡』より20年も古いのですよ。

『山紫水明』百済観音の記述があるページ抜粋。”岡倉文学士の分かちたるによれば(中略)百済観音一体”とある
そこで、さきほど触れた明治の「ネーミング混乱期」の情報を整理しましょう。
明治政府の文部省は、寺社の古いもの(文化財という呼称がまだ無かった)の散逸を防ぐため、何度も調査をしています。
一番最初の例は明治5年の「壬申調査」ですが、このときは仏像まで調査が及ばなかった。
百済観音に関連する調査が、明治19年(1886)の調査で、そのときの報告書には
朝鮮風観音像 高サ七尺
とあります。ここで「観音」が出てきます。
これのおかげでしょうか、文部省は観音といい、伝承では虚空蔵といいという状況になります。
その後、明治44年(1911)に、化仏が彫られた宝冠が発見されたことで、観音であることが確定します。

『宝物古器物古文書目録』”朝鮮風観音”の記述があるページ抜粋
この調査に関わったとされる、岡倉天心のメモも、国会図書館に残っていまして、そこには
観音木造 天竺仏ト伝フ 長サ一丈餘ニシテ細長キモノ
(「美術品保存ニ付意見及び美術品目録」より --*1)
長細観音 高カレサル(原文ママ)
(「奈良古社寺調査手録」より
文部省への報告書と手書きメモですが、どちらも明治19年(1886)。
「細長い観音」としているのが、岡倉氏の見立てですね。
"百済"の記述はありません。
そして、この時はまだ宝冠が見つかっていないので、なぜ虚空蔵でなく観音にしたのか不明です。
もしかしたら、岡倉氏が調査したときに、「わたしは観音に見えるんですよね~」とつぶやいた人がいたかもしれないですね。
私の取材体験でも、「言い伝えではこう言われてるけど、私にはこう見える」と、自分なりのイメージを語るお坊さんいらっしゃいますから。
岡倉さん的には、”ナガホソ観音”の呼び方が気に入ってたかもしれないですね。
きっと、仲間内では「あのナガホソ観音がさあ」と言っていたことと想像します。

岡倉天心が「細長キモノ」「長細観音」と書いたのもうなずける? スレンダーな姿
「百済観音ネーミングの張本人」は岡倉天心か?と思われましたが、その証拠は出ませんでした。
この10年後、『山紫水明』が刊行され、忽然と「百済観音」の表記が表に出るのですが、この間に何があったんでしょう?
『山紫水明』の著者・陸羯南(くが かつなん)は岡倉氏より6歳くらい年上のエリート。岡倉氏が古寺調査をしていたころは内閣官房局の編集課長でした(そのあと辞めて新聞社を設立します)。
文部省勤めの岡倉氏とは、どこかで交流があったと考えても自然なことと思います。岡倉氏が提唱した「アジア主義」と陸氏の国民主義も通じるものがあったでしょう。二人とも、急激な西洋化、西洋崇拝に異を唱えて日本の軸を見直そうとした人物です。
岡倉さん、おおっぴらに「ホソナガ観音」と言うのはさすがに気が引けたじゃないでしょうか。
かわり非公式に「百済観音」と呼ぶようにしていたのを、陸さんが耳にしたというのが、私の推測です。
岡倉天心の書簡などもアーカイブされているようですから、陸氏とのやりとりを調べれば何か出るかもしれませんね。
二人の間には、正岡子規や横山大観など、西洋一辺倒の明治期に日本のよさを再発見していこうとした人たちがいて、こうした人たちをテーマにひとつのドラマができそうです。NHKさんかどこか、やるんなら企画協力いたします!
時系列に整理した表はこのようになります。

江戸から明治大正初期の、”百済観音”記述の変遷
まとめると、今までは、百済観音の呼称は大正年間からと思われてましたが、実際はもっと前からだった。
おそらく岡倉天心の調査を皮切りに、仲間内での非公式な呼び名であったのが、陸羯南と岡倉の両氏の交流によって、明治の早いうちには表に出て、次第に浸透していったらしい、という話でございました。
前回と交えて、この話はこれにて一応の完としたいと思います(またいつ再開するかわかりませんけど)。
そんな百済観音のエピソードを歌詞にした一曲、
それでは聴いてください。
宮澤やすみ & ザ・ブッツ で「君はソウルメイト!百済観音」
(アルバム『Kannon Sessions』より)。
---*1 この連載の前回で、「美術品保存ニ付意見」の引用で虚空蔵菩薩も上げましたが、あれはどうやら別の像らしいです。こんどまた。
■あわせて読む(関連記事)
百済観音はいつから「百済観音」なのか? ―前編―
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20250617-2/
「木彫復活」のナゾ③ 飛鳥のクスノキ仏
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20230418-2/
無念の特別展中止。それでも百済観音は美しい
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200414-2/
飛鳥美術の気品「法隆寺金堂壁画と百済観音」
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200324-2/
客仏の哀しみ? 百済観音のひみつ
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20190723-2/
--おしらせ---
本コラム筆者・宮澤やすみ関連情報
1.
早稲田大学オープンカレッジ(中野キャンパス)
消された仏像―古社・古寺の神仏分離
―神と仏、1300年の「事情」―
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65021/
2.
吉原の酔狂と悲哀を歌った古典小唄集
『廓の夜』 宮澤やすみ(唄、三味線、解説)
https://yasumimiyazawa.com/kuruwanoyorubook.html
歌詞と解説をまとめたガイドブック発売中
※楽曲はYoutube、Spotifyなどで誰でも聴けますが、これがあればよりよくわかる!
宮澤やすみ出演情報(これからとこれまで)まとめ
https://yasumimiyazawa.com/live.html
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com
音楽家で神仏研究家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。
こんにちは。7月5日の三味線ライブに向けて準備を進めている宮澤やすみです。お弟子さんがいろいろサポートしてくれて助かってます。
そんな中、この連載、前回は百済観音の謎について迫りました。
しかし、まだまだ分からない点もあったので、あらためて調べてきました。
「百済観音のネーミング事情」について、問題を整理すると、
1.虚空蔵と呼ばれていたのに、なぜ観音に変わったのか?
2.なぜ百済なのか?
という二つがあります。

百済観音(レプリカ)大英博物館 蔵
まず、現在の定説を整理しましょう。
百済観音についてもっとも古い記述は、江戸時代、元禄年間の書物が最初です。それが、
元禄11年(1698年)「諸堂仏体数量記」
というもので、そこには、
虚空蔵菩薩百済国ヨリ渡来。但シ天竺ノ像也。毎夜捧ルト天燈ヲ申シ傳ル也
(『奈良六大寺大観 第4巻(法隆寺4)』より引用)
と書かれています。つまり、
・観音ではなく虚空蔵菩薩とされていたこと、
・百済から来た渡来仏(日本で造ったものではない)であること
の2点が記述されていて、これが明治のころまでこの像の基本情報になります。
とくに”百済”のイメージはここからずっと引きずっていきます(その根拠はなく、現在では日本国内での造像とされます)。

こちらは2番目に古い文献、元文年間の「古今一陽集」。”虚空蔵菩薩””異朝請来”の記述がある『法隆寺資料集成13』より
そして、「百済観音」表記の初出は、
大正6年(1917)『法隆寺大鏡 第四十集』とされてきました。
翌大正7年からの和辻哲郎のエッセイ「古寺巡礼」などで書かれて世間に広まっていく・・・

『法隆寺大鏡第四十集』抜粋。”百済観音といひ”とあり、虚空蔵の伝承も記述しながら観音として紹介
と、ここまでが、だいたい世間で一般的な、「百済観音のネーミングの経緯」です。
ところがですよ、
この連載の前回で、明治30年(1897)の『山紫水明』という本に、
”「百済観音」”と書かれているのです。
さきほど初出とされていた『法隆寺大鏡』より20年も古いのですよ。

『山紫水明』百済観音の記述があるページ抜粋。”岡倉文学士の分かちたるによれば(中略)百済観音一体”とある
そこで、さきほど触れた明治の「ネーミング混乱期」の情報を整理しましょう。
明治政府の文部省は、寺社の古いもの(文化財という呼称がまだ無かった)の散逸を防ぐため、何度も調査をしています。
一番最初の例は明治5年の「壬申調査」ですが、このときは仏像まで調査が及ばなかった。
百済観音に関連する調査が、明治19年(1886)の調査で、そのときの報告書には
朝鮮風観音像 高サ七尺
とあります。ここで「観音」が出てきます。
これのおかげでしょうか、文部省は観音といい、伝承では虚空蔵といいという状況になります。
その後、明治44年(1911)に、化仏が彫られた宝冠が発見されたことで、観音であることが確定します。

『宝物古器物古文書目録』”朝鮮風観音”の記述があるページ抜粋
この調査に関わったとされる、岡倉天心のメモも、国会図書館に残っていまして、そこには
観音木造 天竺仏ト伝フ 長サ一丈餘ニシテ細長キモノ
(「美術品保存ニ付意見及び美術品目録」より --*1)
長細観音 高カレサル(原文ママ)
(「奈良古社寺調査手録」より
文部省への報告書と手書きメモですが、どちらも明治19年(1886)。
「細長い観音」としているのが、岡倉氏の見立てですね。
"百済"の記述はありません。
そして、この時はまだ宝冠が見つかっていないので、なぜ虚空蔵でなく観音にしたのか不明です。
もしかしたら、岡倉氏が調査したときに、「わたしは観音に見えるんですよね~」とつぶやいた人がいたかもしれないですね。
私の取材体験でも、「言い伝えではこう言われてるけど、私にはこう見える」と、自分なりのイメージを語るお坊さんいらっしゃいますから。
岡倉さん的には、”ナガホソ観音”の呼び方が気に入ってたかもしれないですね。
きっと、仲間内では「あのナガホソ観音がさあ」と言っていたことと想像します。

岡倉天心が「細長キモノ」「長細観音」と書いたのもうなずける? スレンダーな姿
「百済観音ネーミングの張本人」は岡倉天心か?と思われましたが、その証拠は出ませんでした。
この10年後、『山紫水明』が刊行され、忽然と「百済観音」の表記が表に出るのですが、この間に何があったんでしょう?
『山紫水明』の著者・陸羯南(くが かつなん)は岡倉氏より6歳くらい年上のエリート。岡倉氏が古寺調査をしていたころは内閣官房局の編集課長でした(そのあと辞めて新聞社を設立します)。
文部省勤めの岡倉氏とは、どこかで交流があったと考えても自然なことと思います。岡倉氏が提唱した「アジア主義」と陸氏の国民主義も通じるものがあったでしょう。二人とも、急激な西洋化、西洋崇拝に異を唱えて日本の軸を見直そうとした人物です。
岡倉さん、おおっぴらに「ホソナガ観音」と言うのはさすがに気が引けたじゃないでしょうか。
かわり非公式に「百済観音」と呼ぶようにしていたのを、陸さんが耳にしたというのが、私の推測です。
岡倉天心の書簡などもアーカイブされているようですから、陸氏とのやりとりを調べれば何か出るかもしれませんね。
二人の間には、正岡子規や横山大観など、西洋一辺倒の明治期に日本のよさを再発見していこうとした人たちがいて、こうした人たちをテーマにひとつのドラマができそうです。NHKさんかどこか、やるんなら企画協力いたします!
時系列に整理した表はこのようになります。

江戸から明治大正初期の、”百済観音”記述の変遷
まとめると、今までは、百済観音の呼称は大正年間からと思われてましたが、実際はもっと前からだった。
おそらく岡倉天心の調査を皮切りに、仲間内での非公式な呼び名であったのが、陸羯南と岡倉の両氏の交流によって、明治の早いうちには表に出て、次第に浸透していったらしい、という話でございました。
前回と交えて、この話はこれにて一応の完としたいと思います(またいつ再開するかわかりませんけど)。
そんな百済観音のエピソードを歌詞にした一曲、
それでは聴いてください。
宮澤やすみ & ザ・ブッツ で「君はソウルメイト!百済観音」
(アルバム『Kannon Sessions』より)。
---*1 この連載の前回で、「美術品保存ニ付意見」の引用で虚空蔵菩薩も上げましたが、あれはどうやら別の像らしいです。こんどまた。
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百済観音はいつから「百済観音」なのか? ―前編―
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https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20230418-2/
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https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200414-2/
飛鳥美術の気品「法隆寺金堂壁画と百済観音」
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20200324-2/
客仏の哀しみ? 百済観音のひみつ
https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20190723-2/
--おしらせ---
本コラム筆者・宮澤やすみ関連情報
1.
早稲田大学オープンカレッジ(中野キャンパス)
消された仏像―古社・古寺の神仏分離
―神と仏、1300年の「事情」―
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65021/
2.
吉原の酔狂と悲哀を歌った古典小唄集
『廓の夜』 宮澤やすみ(唄、三味線、解説)
https://yasumimiyazawa.com/kuruwanoyorubook.html
歌詞と解説をまとめたガイドブック発売中
※楽曲はYoutube、Spotifyなどで誰でも聴けますが、これがあればよりよくわかる!
宮澤やすみ出演情報(これからとこれまで)まとめ
https://yasumimiyazawa.com/live.html
宮澤やすみ公式サイト:https://yasumimiyazawa.com