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仏像を“テツガク”する会 第2回イベントレポート(前編)


第2回「星に願いを、仏像で哲学を」

仏像を前にして、なぜ、人は祈り、願うのか?みなさんなら、この問いにどのように答えるでしょうか?

今年7月7日、七夕の日。表参道のカフェに仏像ファンが集い、「仏像を“哲学”する会」の第2回目が開催されました。仏像に関して各自が抱いている思いや疑問を共有し、「なぜ?」と問いかけ合うことで思索を深めていく、ユニークな会です。

第2回「仏像を“哲学”する会」


参加者は、写真家や絵師、経営者、スクールカウンセラーなど実にさまざまな肩書きをお持ちで、共通しているのは、仏像が好き! あるいは、仏像に興味がある! という点だけ。

「趣味=仏像」。普段、なかなか深く語り合う機会がないからでしょうか。対話がスタートすると、聞き取るのがやっとのマシンガントークがさく裂し、それぞれが仏像に対する思いのたけを語ってくださいました。

仏像って、なんのために作られたのでしょう?お釈迦様は、崇拝をすすめたわけではなく、自分自身で悟ることが大切だって説いたはずなのに」

仏像とフィギュアって何が違うんですかね?昔の人が戦の時に仏像を持ち出したり、仏像に勝利を願ったりしたことと、いじめられっ子がウルトラマンを握りしめて保育園へ行くことの違いは?」
「子供の頃は仏像が怖かったんだけど、大人になってから興味を持つようになり、昨年開催された運慶展も2回行きました。『この仏像は何を伝えたいんだろう?』と、何分間も、じーっと眺めていたら、隣のおばさんに不思議そうに見つめられていました」

TanaCOCORO[掌] 大日如来


ここに挙げた問いは、ほんの一例にすぎず、「仏像を“哲学”する会」では、より多種多様な議論が展開されていきます。

例えば「仏像は、なんのために作られたのか?」という最初の問いについて。

釈迦が亡くなり、しばらく経ってから作られるようになったという仏像。それ以前にも釈迦の分身として、足跡などが拝まれていたとのこと。ということは、釈迦入滅後、拝む対象がなくなったから作られたと答えられそうなものですが、ではなぜ、拝む対象として「像」が必要とされるのでしょう?

「人は強くない。だからこそ、頼りきれる『心の拠り所』として仏像が必要なのではないか?」ある参加者のこの意見は、人間はこれまで、自分(たち)では解決できないことが起きた時、解決に必要な力を振り絞るため目に見える何かに頼ろうとして、対象の形が必要だったのではないか、というものです。

この意見に共感し、祈った時に受け止めて返してくれるような存在として、仏像を感じている――という意見もありました。

また別の方は、「権力者とか先生とか、偉いと思われている人に頼ることがあるけれど、人は裏切られることもあるし、頼る側も文句を言えてしまう。しかし、神仏に頼る場合は、その存在があまりにも遠すぎて、文句を言うこともできない。考えなくてすむからこそ納得できるところがある」、という興味深い考えを提示されました。

移ろいゆく世界に生き、有限で不完全な存在である人間。もちろん仏像も、物理的に経年変化し移ろいゆくものですが、人間の知性や存在を超越した、不変で無限なるものを感じさせてくれます。
仏像が指し示す境地は、人間が目指す理想であったり、人間の足りない部分であったりもします。
人は、何かを目指したり求めたりする時に、その象徴、あるいは理想像として、仏像を必要とするのかもしれません。

唯一の正解が見つかるとは限りませんが、このように他者と対話し、哲学的に考えていくことで、仏像の新たな魅力が発見されていきます。

後編では「仏像とフィギュアの違いは何か?」、「仏像を見た時の感じ方はどうして異なるのか?」についての議論をご紹介します。みなさまもぜひ、これらの問いについて考えてみてはいかがでしょう?

進行役 & 執筆者 吉田幸司
博士(哲学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)を経て、現在、クロス・フィロソフィーズ(株)代表取締役。上智大学客員研究員・非常勤講師などを兼任。共著書にBeyond Superlatives(Cambridge Scholars Publishing)、『理想―特集:ホワイトヘッド』(理想社)など。
Twitter: https://twitter.com/yosh_kj