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第4回 複製の仏像はオリジナルの仏像よりも劣っているのか?


複製品の仏像

複製品」と聞いて、皆さまはどのように感じるでしょうか。

多くの人が、「オリジナル」より劣ったものと考えるのではないかと思います。
しかし、仏像の場合、果たして、本当にそう言えるのでしょうか。

仏像というのは、仏の像であり、仏そのものではなく、仏をかたどったものです。
それ自体がオリジナルではない仏像。その複製を作ることは、オリジナルではないもののコピーをさらに複製することのように思えます。

これは、たとえばゴッホの絵の複製画を作ることとは異なる事態です。
ゴッホの絵はそれ自身がオリジナルであり、何かをかたどったものではありません。
有名な向日葵の絵にしても、それは向日葵の像ではなく、向日葵の表現とゴッホ自身の表現行為、
両者の表現が一体となって生じる芸術作品です。
もととなる向日葵があり、それをゴッホがコピーしたのではなく、ゴッホが描くことによりゴッホの向日葵というオリジナルの存在が新たに生まれるのです。

そう考えると仏像も、仏という理念の表現と仏師の表現が一体となったものと言えますが、
仏像は、仏を表現するもの、あるいは現世に仏を受肉化させる媒体としての役割が強く、
芸術家の自己表現という側面は限りなく排除されています。

仏像の複製が仏をかたどった像をさらにかたどった像であることは、
一見すると、コピーをコピーしたものとしてリアリティがほとんどないことを意味すると思われるかもしれません。

しかし、オリジナルのコピーであるゴッホの絵の複製画よりも、仏というオリジナルをコピーした仏像のさらなるコピーである複製品の仏像の方が、よりリアルであることが、ありはしないでしょうか。



超越的なものの物質化

ゴッホの絵は、描かれた静物や人物のコピーではない、唯一無二のオリジナルの存在であり、絵の具を塗られたキャンバスという物質的形態で完成した、自己完結性を持った作品です。

それに対し、仏を表現した仏像は、はいかに美しく崇高なものであるとしても、物質的な像である自らを超越したものを指し示すものとして自己完結性をもたず、常に超越的なものへと開かれています

それは、キリスト教のイコンが「絶対者に向けて開かれた窓」と表現されるのと同様(※1)ですが、
仏像の場合は密教の影響を受けている点で事情が異なることを、仏像を欧米に紹介した岡倉天心が指摘しています。
キリスト教では、イコンと神はあくまで区別されます。
一方、密教では、精神的なものが物質的なものの中に含まれるという形で精神と物質が融合した、象徴そのものが実現です。
平凡な行為があたかも至福であり、世界自体がそのまま理想界であるかのように見なすという態度が見られます(※2)。
つまり、物質的な象徴の中に、その象徴によって表される超越的なものが具現化されていると考えられているのです。

魅惑的な存在として現出する仏像には、超越的なものの物質化という思想のリアリティを信じた人々の思いが反映されています。
しかし、たとえオリジナルであっても、それ自体で完結しているわけではありません。
もちろん、このことは、仏像の複製品であっても同様です。
オリジナルの仏像も複製の仏像も、超越的なものの物質化という点では、共に、独特のリアリティを放つ存在になり得るのではないでしょうか。

オリジナルの仏像とは何か、仏のリアリティとは何か――私たちは、改めて考えてみる必要があるのかもしれません。

脚注
(※1) ミシェル・クノー『魂にふれるイコン―絶対者に向けて開かれた窓』/高野禎子訳/せりか書房(1995年)
(※2) 岡倉天心『東洋の理想』/講談社学術文庫(1986年)

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・コラム第3回 複製技術時代の仏像とは?
執筆者: 岡田基生
上智大学大学院哲学研究科・博士前期課程修了。専門は、京都学派の哲学。論文に「歴史の動きに関する基礎的研究―後期西田哲学を手がかりとして―」(『哲学論集』/上智大学哲学会/2017年)などがある。