仏像を“テツガク”する会 第3回イベントレポート(後半)
第3回「仏像と向き合うと、心が癒されるのはなぜか?」
「仏像と向き合うと、心が癒されるのはなぜか?」という問いの解明に向けて、前編では「仏像と向き合って心が癒されるのは、どんな条件のときか?」をめぐる議論の一部をご紹介しました。
後編では「美術品としての仏像と、宗教性やスピリチュアリティを感じさせる仏像の違いは何か?」をめぐる議論を紹介していきます。
(2)美術品としての仏像と、宗教性やスピリチュアリティを感じさせる仏像の違いは何か?
会の冒頭、参加者の方から「仏像には、母親のような愛があるのではないか?」との問題提起がありました。これに対し他の参加者の方は「不動明王には母親的な愛を感じない」との意見を提示し、むしろ不動明王には父性を感じ、造形的にも心が癒されるわけではないというのです。
では、怖い顔つきの仏像や、父性を感じさせる仏像には、愛が感じられないでしょうか?
この問いについて、別の参加者の方が興味深いエピソードを語ってくださいました。
自責の念を抱いているときに毘沙門天像に向き合ったら、自分の本心を見透かされ、「しっかりしろ!」と叱られているような感じがしたそうです。しかも、叱られているように感じながらも、その怒りの中には愛が感じられたそうなのです。
この体験談に共感する方は他にもいらっしゃいました。なるほど、不動明王や毘沙門天の父性には、「愛のある怒り」ともいうべきものがあるのかもしれません。
前編からここまでの対話は、苦しいときや自分に責めを感じているときに関するものでした。
では、幸せなときや、もともと気持ちが安らいでいる場合はどうなのでしょう?
参加者の方からは、日ごろの感謝を感じたり、お礼を言いたくなったりするという意見がありました。
自分を受け入れてくれているように感じ、謙虚な心持ちで、どんなことも受け入れられるような気持ちになったりするというのです。
対話を進めていくと、仏像が単なる美術品と違い、何らかの宗教性やスピリチュアリティを帯びているのは、苦しさや後悔の念、感謝の気持ち、そして愛に関係しているからではないかという考えが次第に浮かび上がり、会前半の議論に新たな疑問が生まれました。
それは「美術館よりもお寺の方が、仏像と向き合い、心が癒される条件が整っている」という考えで紹介した外的な条件よりも、当人と仏像との関係、それこそが心癒される条件として大事なのではないか、という新たな気づきでした。
「美術館で買った小さな阿修羅フィギュアでも、オフィスで見ると思わず笑みがこぼれたり、怒りがおさまったりする」という方もいれば、逆に「お寺で修行した際、まったく癒されなかった」という方もいました。
場所や環境などの外的な条件は、むしろ「その仏像とどのような関係を築くか」という、より本質的な条件の一部に過ぎないのかもしれません。
今回は、「哲学シンキング」というメソッドを使い、皆さんで知恵を出し合い、思索を深めていくことで、「仏像と向き合うと、心が癒されるのはなぜか?」という難問に対する、さまざまな洞察や気づきを得ることができました。
進行役を務める私自身にも、毎回、多くの新しい発見があります。次回もまた、参加者の皆さまと哲学的に語り合い、思索を深めていくことを楽しみにしております。
進行役 & 執筆者 吉田幸司
博士(哲学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)を経て、現在、クロス・フィロソフィーズ(株)代表取締役。上智大学客員研究員・非常勤講師などを兼任。共著書にBeyond Superlatives(Cambridge Scholars Publishing)、『理想―特集:ホワイトヘッド』(理想社)など。
Facebook: https://www.facebook.com/c.philos/
博士(哲学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)を経て、現在、クロス・フィロソフィーズ(株)代表取締役。上智大学客員研究員・非常勤講師などを兼任。共著書にBeyond Superlatives(Cambridge Scholars Publishing)、『理想―特集:ホワイトヘッド』(理想社)など。
Facebook: https://www.facebook.com/c.philos/