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出雲仏像の旅3 -大寺薬師から見えるヤマト朝廷の”出雲包囲網”-

出雲大社から近い、大寺薬師は仏像の宝庫。

前記事の四天王のほか、薬師如来、日光&月光菩薩、2体の観音菩薩がいます。


薬師如来と菩薩たちがずらり

本尊の薬師如来はキリリとした表情が若々しいです。

膝あたりの衣文線にも特徴が

シャープで深い彫りの衣文線がくっきりみられることから、これも平安時代前期と目されます。
室生寺・弥勒堂の釈迦如来坐像にも通じる、エッジのたった衣文線です。

日光、月光菩薩は、すっきりした衣文のデザインですが、眼の感じがだいふ古風なんです。
平安期と奈良期のスタイルがまざっているようです。


日光菩薩。まぶたの膨らみだけみると天平風

さて、この仏像ができた時代はどんな時代だったのでしょうか。

まず、この大寺薬師の立派な薬師如来。
基本は病平癒の仏ではありますが、奈良の平城京や京都の平安京(前期)の朝廷にとっては「国家鎮護」のモニュメントでもあったのです。

たとえば、朝廷が東北で蝦夷征伐したときも、薬師如来を現地に祀りました。現在も福島や岩手に立派な薬師如来が残っています。

また、前記事で紹介した四天王。これも朝廷にとっての大事な国家鎮護の主役です。

たとえば、奈良の東大寺は正式名称を「金光明四天王護国之寺」といって、四天王の加護で国を護る寺といった意味合いです。

要するに、薬師如来も四天王も、都の朝廷の政治的影響力を示すものなんですね。

それをふまえてこの地を歩くと、当時の朝廷にとってここがどれだけ大事な場所だったのかと想像がふくらみます。

今は田んぼにサギが集まって、のどかな里の風景が続くだけなんですけどね。

さらに、この地には古くからいろいろあったようで……。

大寺の近くに古代からの遺跡が残っていて、復元公開されています。
弥生時代の四隅突出型墳墓もあって、なかなか見ごたえありました。動画でご覧ください。


青木遺跡。弥生から平安前期までの遺跡が復元されていました

この青木遺跡には、奈良~平安期とされる神社跡もありました。社殿は出雲というより伊勢系で、東を向いていたそう。
つまり、大寺の仏像と同じ時代の神社ですね。


神社建築と思われる掘立柱跡

この地の中心は、なんといっても出雲大社。大国主命が祀られています。
大国主命は、国土を創られたあと、天照大神に「国譲り」をして出雲に鎮まります。

その出雲大社から、さらに西北の岬まで行くと、有名な日御碕神社があり、ここに天照大神(伊勢神宮の祭神)が祀られた。それも平安前期(948年)のこと。

位置関係を整理すると、出雲大社から見て、西北には日御碕神社、東には、大寺薬師と青木遺跡の伊勢系の社殿があった。
時代はいずれも奈良~平安前期の頃。

この時期、出雲の大国主命を挟むようにして、天照系の神社と朝廷の息がかかった仏像が置かれたのです。
それはまるで、大国主命の魂を封じるかのよう……
その真の意味とは……?

というのが、実際に歩いて感じた印象なんですけど、文献などの実証はないので、あとは歴史学者の先生にまかせましょうね。
歴史ミステリーのひとつとして、こういう想像が楽しいのです。

きっと歴史の中で、良いことも悪いことも、祝い事も呪い事も、この地でいろいろあったのは確かでしょう。

さて、ここから山を越えれば日本海。昔はここが日本の玄関口みたいなもの。
その要となるのが美保関なのですが、それは次回記事でご紹介します。


大寺収蔵庫には、名前不明の神像もたくさん。興味が尽きません