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第3部 幸せって何だか、わかったよ 第5回 幸せになれるのは残酷な人?

こんにちは!一笑仏工房の中の人、あんどぅ☆ななせです( ^ω^ )
当コラム第3部「幸せって何だか、わかったよ」では、あんどぅ☆がHIKIPOSというひきこもり当事者の雑誌を読んだときに「そうか…わかった…わかったよ…幸せって、そういうことか…」(°Д°) と閃いて、誰かに伝えたいと思ったもののうまく端的に言語化出来なかったので、少しずつエピソードを積み重ねながら伝えようとしております♪




HIKIPOS No.5「ひきこもりと幸福」では、こんな寄稿もありました。
「私は周りの人が苦しんでいるのを放っておけないので幸せになれない。周りの人なんてどうなってもいいよ、自分だけ幸せならそれでいいという残酷な人だけが幸せになれる」という内容です。

なるほど…そういう見方もありますね。
多分、この人の言っている「幸せ」というのは、楽しい気分のことなんでしょうね。

うん、それもまた真なり、と思いますが…
そんな楽しい気分が絶対不変かと言うとそうではないですよね。自分だけ幸せならそれでいいという「残酷な人」であっても苦しみを抱えていることでしょう。
人が「幸せになりたい」と言うとき、もしかしたら「絶対不変な楽しい気分で生きられるようになりたい」と思っているのかもしれませんが、まあそんな幸せは人間が妄想する極楽みたいなもんです。存在しないから憧れるし、どうしたら幸せになれるのかというかことが人間にとっての永遠の命題なんでしょうね。


 





ところで私、ベジタリアンなんです。25歳頃からかれこれ15年ぐらい、肉魚卵を食べていません。
「なんでベジタリアンになったの?」とよく聞かれるんですが、これもまた一言では説明できないものでして…
まず、25歳頃の私は支配欲の強いインド人と付き合っていて、拒食症になってしまったんですね。
その頃の苦しみたるや相当のものだったので、なんとかしてこの苦しみから逃れる方法は無いものかと、色々と模索したんです。
模索したなんて言うと積極的に聞こえますけど、プールの中で溺れそうになりながら必死に息継ぎしようとしていたようなもんです。
そんな中、生粋のヒンドゥー教徒である義母がベジタリアンだったり、ガンディーの著作に感銘を受けたりして、ベジタリアンという生き方に魅力を感じるようになりました。
そして世界中の人々のベジタリアンになった理由を調べているうちに、自分の中のベジタリアンである理由も補強されて行ったんです。
要するに、今の自分の苦しみは、周りから暴力を受けているせいだ、とも言えるのですが、では周りから暴力を受けないようにするにはどうすればいいかと考えた結果、自分から暴力の種を蒔かなければいいという考えに至ったんですね。苦しみから逃れようとするうちに自然と仏教的な考え方になっちゃったわけです。
食卓に上がる全ての動物の肉は、暴力によって殺されて得られたものですから、一説によるとその肉には殺される瞬間にアドレナリンが放出され、食べた人間に蓄積されて鬱や暴力性の原因になります。そしてその暴力は巡り巡って自分のところに降りかかる、と言うわけです。

はい、ちょっと話がオカルトじみてきましたよね!
私自身、そんな話はトンデモ科学かな、と話半分に受け取っていますし、私の旦那さんも子供達もみんな肉食です。
どんなものを食べようが人それぞれで構わないと思っています。
それでも、生きることがあまりにも苦しかった自分は、藁にもすがる思いでベジタリアンという生き方になるしかなかったんです。
私が肉魚卵を食べないからと言って、世界中の屠殺がなくなるわけじゃありませんし、既に食卓に上がったものを食べないのは勿体無いとか生き物に申し訳ないという考え方もあります。
植物だって生命なのに植物は食べていいのか?と言われることもあります。
わかってます!わかってますよ!ベジタリアンなんて無駄なことですよ!でも…どうしても食べる気がしないんです。
生命の苦しみに上に成り立つ美味しさを楽しもうという気になれないんです。





ここで最初の話に戻ってくるんですけど。
「私は周りの人が苦しんでいるのを放っておけないので幸せになれない。周りの人なんてどうなってもいいよ、自分だけ幸せならそれでいいという残酷な人だけが幸せになれる」
という考えの「幸せ」を「肉」に置き換えてみると、
「私は他の生命が苦しんでいるのを放っておけないので肉は食べられない。他の生命なんてどうだっていいよ、自分だけが美味しい思いできるならそれでいいという残酷な人だけが肉を食べられる」
となります。
すみません、偉そうですね!
ベジタリアンが偉いだなんて本当にこれっぽっちも思っていませんし、肉を食べたい人は食べればいいと思っていますよ!!
お釈迦さまことゴータマ先生だって、ベジタリアンじゃないんです。お布施で頂いたものは何だって食べたんです。
ただ、心情としてはそんな感じだとご理解いただきたいわけです。

先日、小泉進次郎環境大臣が国連気候行動サミットに出席するために渡米したにも関わらずステーキを食べたことを批判されていましたが…
ベジタリアンの私からすると、なぜ平気で肉を食べる人たちが同じ平気で肉を食べる人を批判するのかと不思議で仕方ないです。
今の世の中は肉を食べるシステムで出来上がっていて、みんな多かれ少なかれそのシステムの恩恵を受けて生きています。
その中でちょっと肉を食べないぐらいで全然偉そうになんて出来ないし、むしろ高級ステーキ店で肉を食べるなんて資本主義社会にものすごく貢献していると言っていいじゃないですか。偉いもんですよ。

ただ私は肉を食べたくないし、肉を食べることが幸せだと言うなら、幸せになんてなりたくない…それだけです。


つまり何を言いたいかと言うと、選択できるんじゃないかってことです。
肉を食べてもいいし、食べなくてもいい。
幸せになってもいいし、ならなくてもいい。




幼稚園の頃、お寺が経営する幼稚園に通っていたのですが、ある日先生が紙芝居で話してくれた「蜘蛛の糸」のお話が強烈な印象となって記憶に残っています。
あの有名な芥川龍之介の小説です。
記憶の中で、お釈迦さまは寂しそうに池のほとりに佇み、池の底の地獄を覗いています。
そして地獄の住人たちは先を争って蜘蛛の糸を登ろうとし、性根の醜さゆえ極楽に辿り着くことは出来ずにまた地獄の底に落ちて行くんです。
それをただ寂しそうに見て立ち去って行くお釈迦さま…



仏教が求めているのは「絶対不変的に心が明るく楽しい状態」にあるような幸せじゃないんだな、と思います。
そんな幸せなんて存在しないと理解した上で、でもヤケになって死んだりしないで、生きている間は無明の中にいる人たちに心を寄せ、慈しみの心を持って生きること…

幸せにならないことを選択しても全然いいじゃないですか。
はたから見ると、寂しそうで哀しそうに見えるかもしれませんけどね。







(続く)