仏像を“テツガク”する会 第5回 イベントレポート
第5回「仏像に会いたくなる時とは?」
2019年2月22日、第5回「仏像を“テツガク”する会」が開催されました。
今回のテーマは、「仏像に会いたくなる時とは?」。
開催場所は、東京四谷にある「坊主BAR」。参加者の皆さまも「以前から気になっていたけれど来るのは初めて」という方が多く大変喜んでいただけました。
第5回「仏像を“テツガク”する会」in 四谷 坊主BAR
今回も、問いを深め、本質を追究する「哲学シンキング」というメソッドを使い、
まずは、参加者の皆さまから、テーマに関連する「さまざまな問い」を挙げていただきました。
① 「三十三間堂には多くの人が訪れるが、観光客はなぜ仏像に会いに来るのか?」
② 「自宅にも仏像があるのに、どうして京都などの仏像を見に行きたくなるのか?」
③ 「何が仏像を見に行かせるのか? 自分なのか? 自分じゃない何かが向かわせているのか?」
④ 「年配の男性で、仏像に会いに来る方が多いのはなぜか?」
⑤ 「思わず手を合わせるのは、なぜだろうか? 自分で所有したくなるのはなぜだろうか?」
⑥ 「仏像を美術品として見に行きたいのか? 心が会いたいと感じて見に行くのか?」
最初に取り上げたのは、仏像に会いに行きたくなる「理由」や「目的」に関する①と②の問い。
参加者の皆さまに意見を伺い最初に提示されたのは、仏像を取り巻く歴史的背景や文化に関わる意見でした。
「私は古いものが好きで神社仏閣をよく訪れるが、それらの多くは不便な時代に作られたもの。
そういった歴史性を感じるから、国宝や重要文化財の仏像にも会いに行きたくなるような気がする」
一方で、こんな意見も。
「仏師は、拝みやすい顔の仏像を作っているとテレビで見たことがある。
だとしたら仏師が、仏像に会いに行きたくなるように決めていることになるのでは?」
「仏像を目の前にすると落ち着く。そうした経験をしたいから、仏像に会いに行きたくなる」
この二つの意見は、仏像に会いに行きたくなる理由が、
自分の目で仏像を見ることに関わっていることを示唆しています。
しかし、そうだとしたらなぜ、仏像の写真ではいけないのでしょうか?
写真で仏像を「見る」ことができるのなら、直接会いに行かなくても別に良いのではないでしょうか?
これについては、あらかじめ写真で見ていても、生の感じを味わいたいから直接会いに行きたくなる、という意見が出ました。
また「見る位置や角度によって表情などの見え方が変わるのだから、カメラマンの視点で撮影された写真ではなく、自分自身の目で見たい」という方や、「お堂という空間の中で、仏像と一対一で向き合いたい」という方もいらっしゃいました。
さらに「写真でしか見たことがなかった秘仏を拝めるとなれば、拝観料を払ってでも、いろいろな角度から見てみたい」という意見も。
ところで、いろいろな角度から見ることで表情などの見え方が変わるとしたら、
最も拝みやすく、表情はもちろん像全体をさまざまな位置や角度から見られることを念頭におき、計算されて、お堂自体が作られていると考えることもできるのではないでしょうか?
仏師は、拝みやすい仏像の顔を作っているという話がありましたが、
実際に仏像に会いに足を運んでもらえるように、
「みんなが美しいと思うように、ヴィジュアルもかっこよく、美しく作られているのではないか」
という意見も寄せられました。
その意味では、仏像の第一印象も「仏像に会いに行きたくさせる」重要な要因だと、
対話を進める中で皆さんの考えが一致していきました。
もし、この考えが正しいとすれば、「仏像に会いたくなる時」は、会いに行く当人だけでなく、
仏像そのものや、それを取り巻く要因が、本質的に関わっていると考えられるでしょう。
この論点は、③や⑤、⑥の問いにも本質的に関わってきます。
一体、何が、私たちを、仏像に会いに行かせるのでしょうか?
この問いに関連して、参加者の方から以下のような興味深いエピソードが語られました。
「以前、お寺に行ったとき、忘れ物をして取りに戻ったことがある。
忘れ物を取りに行っただけなのに、思わず、仏像を前にして手を合わせてしまった。
自分が拝みたかったというよりも、拝まされたという感覚がある」
仏像に会いに行く明確な理由や目的がなかったときでも、
思わず手を合わせてしまったり、自分ではない何かに拝まされたりするようなことがあるというのです。
では、その正体は、何なのでしょうか?
この新たな問いについては、「仏像に感じられる普遍性や尊さが関係しているように思う」との意見が提示されました。
物である仏像は、経年変化し変わっていくのは確かですが、
仏像の奥からはご利益など何か普遍的なものを感じる、というのです。
「諸行無常」という言葉があるように、
この世に変わらないものはなく、私たち自身も、日々、変わっていきます。
私たちの、そのときの気持ちに応じて、仏像が見せる表情も異なるでしょう。
しかし、表情の見え方は変わっても、仏像は、いつも変わらずその場にいて穏やかに見えると、
ある参加者の方は言います。
そして、変わらない仏像が、人生のさまざまな状況においてその都度、どのように対処すべきか、どうあるべきか方向性を指し示してくれると考えられるというのです。
90分間の対話の終盤には、年配の男性に仏像ファンが多いのも、そのような仏像に心の拠り所や安心感を求めているからではないか、という仮説も提起されました。
また、「自宅の仏像ではなく、京都などの仏像に会いに行きたくなるのはなぜか」という問いについては、
国宝や文化遺産になっている仏像のほうが、大きな歴史や普遍性、ご利益をより一層感じられるからかもしれないとの考えに至りました。
今回は、「仏像に会いたくなる時とは?」をテーマに対話をしてきましたが、
単に、「こんなときに会いに行きたくなる」と事実を語り合うだけでなく、
「なぜ、そうなのか?」を突き詰めていく点が、哲学的な探究においては大切です。
そうすることによって、私たちは普遍的な真理に迫っていくことができるのではないでしょうか。
進行役 & 執筆者 吉田幸司
博士(哲学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)を経て、現在、クロス・フィロソフィーズ(株)代表取締役。上智大学非常勤講師、哲学シンキング研究所センター長などを兼任。共著書にBeyond Superlatives(Cambridge Scholars Publishing)など。
Website: http://c-philos.com/
博士(哲学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)を経て、現在、クロス・フィロソフィーズ(株)代表取締役。上智大学非常勤講師、哲学シンキング研究所センター長などを兼任。共著書にBeyond Superlatives(Cambridge Scholars Publishing)など。
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