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- 小出遥子のさとり探究記
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第一部 連載10回目 「成仏」の意味
答えがない……。
「さとり」を探求している間、私は、ずっとこの思いに苦しめられていたように感じます。
いまなら苦しみの原因がはっきりわかります。
ほかでもない、その「答え」をつかもう、定めようという態度こそが、私を苦しめていたのでした。
その頃、私は大きな勘違いをしていました。
「成仏」ということばの意味を、完全に間違えていたのです。
「仏」とは、つまり、「さとりとともにある存在」のことです。
私は、どうしても、さとりたかった。
さとりを得て、「仏」になりたかった。
「仏」になれば、すべての苦しみから解放され自由になれると思ったから。
そう、当時の私は、「成仏」=「仏になること」と信じて疑わなかったのです。
「仏になりたい」「仏になろう」、その思いひとつで突っ走り続けていました。
「仏になること」が、究極の「答え」だと思い込んでいました。
あの頃の必死の努力のすべてが無駄なものだった……と言うつもりはありません。
でも、「仏になりたい」という思いがいったいどこから湧いてきたのか、それを、一度立ち止まってきちんと考えてみるべきだったな、とは思います。
「仏になりたい」という思いのベースには、「いまは仏ではない」という思い込みがあります。
「仏ではない」。だからこそ「仏になりたい」。
「仏ではない私」が「仏になる」ためには、懸命に努力を続けなくてはいけない。
もっとがんばって、もっともっとがんばって、もっともっともっとがんばって……
いつか私は「仏」になるんだ……!!!
……もうお気づきでしょう。
探求の罠の正体は、私自身の思い込みにあったのです。
「いつか仏になりたい」。
「なぜなら、私は仏ではないから」。
その思い込みが、かえって、私を「成仏」から遠ざけていたのです。
でも、その事実に気づくまで、私にはまだまだたくさんの時間が必要でした。
次回へ続きます!