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第一部 連載14回目  「南無阿弥陀仏」という光 その3



私は、ずっと、



「さとり」の境地とは、「仏」の住処とは、「極楽」とは、「浄土」とは、



「ここではないどこか」に存在するものだと思っていました。



 

 

 

でも、違いました。

 

「仏」は、いつだって、「いま」「ここ」「自分」とともにあったのです。

 

 

 

いままさに「生」を終えようとしている法然さんの、

 

「私はもともと極楽にいたのだから、ただ、そこに戻るだけだ」

 

という、果てしなく穏やかなことばは、

 

私を、「いま」「ここ」「自分」へと引き戻しました。

 

 

 

「救い」に、条件などありませんでした。

 

 

 

坐禅をしたから、

 

念仏をとなえたから、

 

無の境地を体得したから、

 

般若心経の意味が理解できたから、

 

曼荼羅の世界観に没入できるようになったから、

 

 

 

「だから」救われる、なんてことは、絶対にないのです。

 

 

 

私たちは、ほんとうは、いま、この瞬間も、絶対的に救われている。

 

仏さまの手のひらはあまりにも巨大で、そこからこぼれ落ちる人など、ひとりたりともいないのだ。

 

 

 

ただ、その事実を、事実だと確信できるか、それだけが問われているのだと、

 

私は、静かに確信しました。

 

 

 

私たちは、救われている。

 

悲しみの中にあっても、憎しみの中にあっても、

 

悩みの中にあっても、痛みの中にあっても、

 

そのまま、ありのままの姿で、絶対的に、救われている。

 

 

 

その証拠に、いまだって、こうして心臓が動き、呼吸が続いている。

 

これ以上の「ゆるし」なんて、どこにもないじゃないか。

 

 

 

涙があふれて止まりませんでした。

 

ようやく、自分と仲直りができた気がしました。

 

私は、仏さまの手のひらの上で、完全にくつろいでいました。

 

 

 

(次回に続く)