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- 小出遥子のさとり探究記
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第二部 連載17回目 大切なのは「排除」より「受容」
![](https://www.butuzou-world.com/wp-content/uploads/2018/10/ab7e10753f4280457babf608ec12e270.jpg)
さとりを「探求」していた頃の私は、
悲しみや怒り、みじめさ、やるせなさなどの「ネガティブ」な感情を、
必死で「排除」しようとしていました。
それらが私の世界から完全に消えてなくなれば、
そのときはじめて、私のこころに平安が訪れるのだろう。
本気でそう思っていたんです。
でも、この連載の第一部で書いてきたように、そのやり方では決してうまくいきませんでした。
ネガティブなものは、この世界に存在してはいけない。
「消えてなくなれ!」「あっちへ行け!」「もう二度と姿を現さないで!」
そう叫べば叫ぶほど、その気持ちが「とりもち」のようになって、
余計にネガティブな感情を連れてきました。
でも、あるとき、ふと気づいたのです。
自分が「ゆるせない」と思っている感情たちは、
「ゆるされている」から存在しているのだ、ということに。
この世にあるすべては、仏(と便宜上呼ばれているなにか)に、
完全にゆるされ、愛されているからこそ、
いまここに存在できているのです。
なにかを「ゆるせない」と思っている自分すら、
完全にゆるされ、愛されているのです。
そのことに目を見開かされた瞬間、一気に力が抜けていきました。
と同時に、たとえようのない安心感に包まれました。
もう、なにかを「敵」と見なして、必死で「排除」しようとしなくていい。
なぜなら、すでに、すべては「受容」されているから。
ここで大事なのは、「受容」はすでに(仏の手によって)なされている、ということ。
無理になにかを「受けいれよう」としなくていいんです。
人間は、ただ、「受けいれられている」という安心感の中でくつろいでいればいんです。
くつろげないときは、くつろげない自分すら、
すでに完全に「受けいれられている」ということに、
そっと思いをいたすだけでいいんです。
大切なのは「排除」より「受容」。
これが、「探究」の基本態度です。
次回へ続きます!