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- 小出遥子のさとり探究記
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第三部 連載38回目 さとったところで自我は消えない!(その2)
「さとり」を体感したところで、自我は消えない。
思考も、感情も、体感も、これまで通り、あまりにもふつうに起こってきます。
でも、それらを、「自分の所有物」とは感じなくなるんです。
「さとり」を体感すると、普段、自分が自分だと思っているものと、
自分が外側の世界だと思っているものとの間にある「境界線」が溶けてなくなります。
つまり、「内側」と「外側」の区別がなくなり、
「わたしが世界」で、「世界がわたし」という感覚が生まれてきます。
そうなると、たとえば、
道路を走る車のタイヤの音や、遠くの電車の音、
近所の犬の鳴き声、鳥のさえずり、
風にそよぐ木々や花々の姿や、
地面に落ちる影、雨の匂い、
陽の光のあたたかさ……。
そういったものとまったく同じように、
怒り、悲しみ、よろこび、
ネガティブな考えや、ポジティブな思い、
心臓の音、呼吸のリズム、
手のひらの汗や、背中のこわばりまでもが、
いまここに、
この世界に、
「外側」も「内側」もなく、
「自分」も「自分以外」もなく、
ただひとつの大きないのちの中に、
さまざまなものが、
別々の姿・かたちをもって、
ただ、あらわれては、
ただ、消えていく……。
そこには「良い」も「悪い」もなくて、
すべては、ただただ、そのように「ある」だけで……。
そう。
思考も、感情も、体感も、
すべてのものと同じように、
いまここに、
ただ、当たり前に「ある」だけです。
ほんとうは、
「私の思考」 「私の感情」 「私の体感」
そんなふうに呼べるものなんか、なにひとつ、ほんとうに「なにひとつ」なくて、
すべては、大きないのちのあらわれとして、
いまここに、ただ、あらわれては消えていく……。
この世界には、「私のもの」など、なにひとつなかった――
わたしは、ただの、なにものでもないいのち、そのものだ――
この実感こそが、「さとり」の感覚です。
「さとり」とは、つまり、
「所有」という幻想から自由になる感覚のことなのです。
この感覚を味わいたい方は、
ぜひ、これまでの連載で書いてきた「ワーク」を、
日々の中で、繰り返し実践してみてくださいね。
あたまで考えずに、からだまるごとで、「体感」してください。
次回へ続きます!
※毎朝6時より、ツイキャスにて「ラジオ瞑想」という番組を生配信しています。
こちらのコラムで書いているような内容(「さとり」を体感する道)を、「瞑想」というかたちでシェアしています。
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