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第9回 仏像鑑賞と悟りの関係


「放てば、手に見てり」

第6回第7回のコラムでは、仏像を眺めることによる意識の集中状態により、リラックス効果が得られたり、創造性が高まったりすることを論じました。

しかし、そのような効用を求めて仏像を見ても、ほんとうに、その効用を得ることができるのでしょうか。むしろ、「眠ろう、眠ろう」と思うと、かえって眠れなくなるように、効用を得たいという気持ちが空回りしてしまうのではないでしょうか。

では、仏像を眺めることで意識の集中状態に入るとは、どのような事態なのでしょうか。

鎌倉時代に、日本に曹洞宗を伝えた道元は、自らの悟りについて「放てば、手に見てり」という印象的な言葉を残しています。求める気持ちを手放すことによって、求めていたものが得られるという事態は、悟りの表現として、仏教の中で度々語られてきたものですが、このことは、仏像を眺めることにも当てはまるのではないでしょうか。

つまり、効用を求めようとする態度を捨てて、虚心坦懐に仏像と向き合うときにこそ、効用が与えられるのではないかと考えることができます。それは、心の平安を求める気持ちを手放すことによって、心の平安が得られるという逆説的な事態です。

ただし、仏像鑑賞による心理的プロセスが悟りの心の働きと類似しているからといって、単純に重ねることは避けなければならないでしょう。

芸術活動と宗教的経験の同一性


第8回のコラムで紹介した日本の哲学者 西田幾多郎は、処女作『善の研究』において、知覚や制作のような活動と宗教的経験には、深さや広さの差があるにしても、同一の構造が見られることを強調していました(1)。


西田幾多郎(1870年-1945年)


しかし後年、西田は通常の活動と、宗教的経験の構造が異なることを強調するようになります。それは、通常の活動では、自分の欲求を実現するという自己実現が基調となるのに対して、宗教的経験では、自分そのものが新たに生まれ変わるという事態が見られるからです。

仏像を見るときの瞑想の状態が仏教の悟りと同一視できるかは、それが芸術鑑賞という性格を有するか、修行や信仰という性格を有するかによると考えられます。ただ単に、芸術作品を鑑賞して集中するだけでは、必ずしも自分に変化が生じるとは限らないでしょうか。

しかし、もし仏像と向き合い、深い一体感が得られ、自分自身が新たに生まれ変わるようなことがあるならば、その一面には宗教的経験と類比的な構造が見られると言えるのではないでしょうか。

脚注
(1) 西田幾多郎 『西田幾多郎全集』第1巻/岩波書店(1965年)/42頁)

読書案内
西田幾多郎 『西田幾多郎全集』第1巻/岩波書店(1965年)
西田幾多郎 『善の研究<全注釈>』/講談社学術文庫(2006年)

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執筆者: 岡田基生
上智大学大学院哲学研究科・博士前期課程修了。専門は、京都学派の哲学。論文に、「歴史の動きに関する基礎的研究―後期西田哲学を手がかりとして―」(『哲学論集』/上智大学哲学会/2017年)、「新しい知識人のタイプの構成―三木清の人間タイプ論を手がかりに―」(『人間学紀要』/上智人間学会/2018年)などがある。